第2節 豊田佐吉の事業

第2項 豊田紡織株式会社の設立

豊田紡織株式会社の設立

帰国した豊田佐吉は、1911(明治44)年10月、愛知郡中村大字栄1字米田(現・名古屋市西区則武新町4丁目)に3,000坪(9,900m2)を借り、工場の建設に着手した。

この工場は、翌1912(大正元)年9月に豊田自動織布工場として完成し、本格的に稼働を開始した。本来なら織機200台を設置できる工場であったが、資金不足のため、織幅51インチ(129.5㎝)の普通織機92台、自動織機8台の合計100台と、予定の半分しか織機を導入できなかった。

そこで、佐吉は設備資金の調達を目的に、特許権の譲渡を豊田式織機株式会社に申し入れた。特許権の使用対価は、1割配当後の利益金残額の3分の1と取り決めていたが、同社は1割配当できるほど利益をあげたことがなく、佐吉は一度も特許権使用料を受け取っていなかった。交渉の結果、1912年10月に特許権すべてを8万円で豊田式織機へ譲渡することが決まり、1913年1月に支払いが完了した。佐吉はその資金で織機を買い増し、豊田自動織布工場の織機台数は目標の200台となった。なお、8台の自動織機は試験用であった。

佐吉は、自動織機の研究過程で、糸の品質に問題があることを確認していた。当時、日本の紡績糸は、短繊維でムラが多く、張力が弱かった。そのため、たて糸に用いるとすぐに切れてしまい、自動織機本来の性能が発揮できず、試験結果の評価が難しかった。そこで、佐吉は独自に紡績工場を設けることとし、1912年12月に帰国したばかりの西川秋次にその建設を命じた。

西川は、東京高等工業学校紡織科の友人で、機械輸入商社の高田商会に勤めていた古市勉に5,000錘の紡績設備の見積もりを依頼した。古市は設備計画を作成して見積もりを提出したが、佐吉が三井物産の藤野亀之助支店長に相談したところから、話は一転して三井物産が紡績設備を納入することになった。さらに、三井物産は佐吉への融資も約束した。

6,000錘のプラット ブラザーズ社(以下、プラット社)製紡績設備を輸入し、稼働を開始したのは、1914年2月である。原動力は電動モーターであり、既述のユニフロー蒸気機関により自家発電を行った。紡績工場の兼営に伴い、工場の名称も豊田自動紡織工場に改称された。

当時、紡績工場の標準的な規模は3万錘前後であり、周囲では6,000錘の零細な規模では採算がとれないと反対の声が強かった。ところが、1914年7月に第1次世界大戦が勃発すると、事情は一変した。イギリスをはじめとする交戦国の綿紡績は、軍需産業への転換によって生産力が低下したうえ、戦時下の船腹不足や航路不安などにより、ヨーロッパからのアジア向け綿製品輸出が途絶したのである。日本の綿業界は、それにかわってアジアに進出するとともに、イギリスやアメリカへも綿製品を輸出するようになり、空前の活況を呈した。

豊田自動紡織工場の業績も好調に推移し、逐次工場の増設が行われた結果、1916年には紡機3万錘、織機1,000台の規模となった。そして、1918年1月30日に豊田自動紡織工場は株式会社に改組され、豊田紡織株式会社が設立された。設立時の豊田紡織の概要は、次のとおりである。

所在地
愛知県愛知郡中村大字栄字米田1716番地
資本金
500万円(300万円払込済み)
経営陣
社長:豊田佐吉、常務取締役:豊田利三郎2、取締役:藤野亀之助3、監査役:児玉一造4
工場設備
紡機3万4,080錘(プラット社製)、織機1,008台(豊田式)
従業員
約1,000人

この豊田紡織から豊田自動織機製作所が生まれ、さらに豊田自動織機製作所からトヨタ自動車工業や愛知製鋼が誕生し、現在のトヨタグループを形成する各企業が派生していった。豊田紡織は、現在のトヨタグループの基になる会社である。

豊田紡織自体は、1942(昭和17)年2月、豊田系や東洋棉花系の紡織会社5社のうちの1社として、中央紡績株式会社に統合されて解散した。中央紡績は、翌1943年11月にトヨタ自動車工業に吸収合併された。

名古屋市の旧豊田紡織の本社工場は、大正時代のレンガ造りの工場建物が残っており、現在はトヨタグループの産業技術記念館として利用している。また、旧豊田紡織の刈谷工場は、トヨタ紡織の本社および刈谷工場となっている。

なお、弟平吉が経営する豊田織布工場は、豊田紡織が設立される前年の1917年、同じ村内の西春日井郡金城村大字北押切5に新築・移転した。この工場は、豊田織布押切工場と呼ばれ、1927年には紡績工場を併設した。その後、1931年に豊田押切紡織株式会社に改組され、1942年には既述の中央紡績に統合された。

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