第4節 豊田自動織機製作所の設立

第3項 綿業不況と事業の多角化・合理化

多角化・合理化の進展

人員整理などの厳しい合理化が取り組まれる一方、不況克服策として多角化が推進された。

まず、1928(昭和3)年12月に株式会社庄内川染工所を設立した。同社は晒加工を事業とし、これにより付加価値の高い加工綿布が出荷できるようになった。ついで、1932年12月には同社に隣接して庄内川レーヨン株式会社を設立し、人絹糸の生産を開始した。その後、両社は戦時中の国策により、1941年6月に東洋レーヨンと合併し、現在は東レ愛知工場となっている。

1929年3月には豊田紡織と東洋棉花の折半出資で、中央紡織株式会社が刈谷に設立された。設立の趣旨は、最新の紡績機械による模範工場を建設することにあった。当初は三井物産が輸入したプラット社製の最新紡績システムを用いたが、1933年の4万2,000錘増設計画では、豊田自動織機製作所製の紡績機械を導入した。

中央紡織は、豊田自動織機製作所が自動車事業に進出した際、保有する工場用地10万1,000坪(33万3,300m2)のうち、1万4,654坪(4万8,358m2)を同社自動車部の組立工場用に割譲した。この組立工場は、1936年6月に操業を開始した。

1942年2月、中央紡織は国策により、豊田系・東棉系の紡織会社4社と合併して中央紡績となった。これに伴い、中央紡織の工場は中央紡績刈谷北工場と改称した。さらに、1943年11月にはトヨタ自工に合併されたため、同社航空機工場となり、航空機用エンジンの製造にあたった。1

豊田紡織は、1930年9月期(同年4~9月)に創業以来初の赤字決算となり、22万8,625円の損金を計上した。同じく菊井紡織も同期に28万507円の欠損となった。このような経営不振から、両社とも同年6月には5昼夜の操業短縮を実施し、職工賃金の1割削減を行った。そして、生産体制の抜本的な合理化・効率化を目的に、両社は1931年5月に合併した。

なお、1930年9月に三井物産が豊田自動織機製作所、豊田式織機、英国プラット社の3社合併を提案し、交渉がもたれたが、合意に至らず、翌年には白紙還元された。

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