トヨタ自動車販売の設立

1950(昭和25)年正月早々、トヨタ自工の再建計画に関する日本銀行との折衝が始まった。自動車販売代金の回収停滞が経営悪化の大きな原因であったところから、販売資金と製造資金を峻別できる体制の確立が再建計画策定の基本方針となった。具体的には、販売会社の設立、月賦販売制度の確立、販売秩序の維持と市場動向に即した自動車の生産と販売、必要資金4億円の融資、などが取り決められた。

販売会社の設立構想は、販売担当の神谷正太郎常務が戦前から抱いていた構想といわれ、1950年2月5日に経営協議会の席上で明らかにされた。1もともとトヨタ自工では、月賦販売制度を支えるための金融機能を果たす会社として、トヨタ金融株式会社が1936年10月に設立されていた。しかし、戦時中の自動車配給統制により、割賦販売資金の融資が不要になったので、同社は業務内容を変えて豊田産業株式会社と改称した。

戦後まもなく、豊田産業は自動車金融を復活させた。当時、掛売りの場合、豊田産業を経由して各販売店へ売り渡され、代金は手形で決済された。その際、販売店が銀行から融資を受けられないときには、豊田産業が販売店に融資する制度も設けていた。

この業務は、豊田産業の自動車金融課が担当したが、1947年9月には同社が持株会社に指定されて解散したため、自動車金融課は分離独立され、大豊産業株式会社が設立された。しかし、大豊産業は資本金も少なく、また金融機関からの信用力も乏しかったところから、十分に機能しなかった。このため、1948年11月に自動車金融の業務はトヨタ自工に移管2されたが、トヨタ自工自体が資金不足で困窮を余儀なくされるという状況であった。

豊田喜一郎社長は、自動車金融会社を設立する必要性について、1950年2月28日開催の経営協議会の席上、次のように述べている。

自由経済時代に移行しつゝある今日、統制経済時代に育成され自由経済時代の経験の殆どない自動車工業は、今後外国車との競争が激しくなると思われるが、果たして成り立ってゆくかどうかという懸念が、業者間殊に金融業者間に強い。然し、私はそうは考えない。米国でさえも自動車は月賦販売であるので、私はその月賦資金さえあれば、この工業は成り立ってゆくものと確信している。そこで我々は関係方面に月賦資金調達の話を進めた結果、それに伴って販売会社の独立ということになったが、種々の問題があって、思うようにゆかない。

その主な理由は

  1. 一、金融界のトヨタの経営に対する不信用
  2. 二、自動車産業の前途の不安
  3. 三、月賦金融にならず滞貨金融になると考えられていること

等である。即ちトヨタに対する不信用は、技術が経営に先行していること(逆に言えば現在では金融あっての経営であり技術である)ということゝ、トヨタに融資してもその使途が不明確であるということにある。

更に金融筋は、以上の点を是正するため、トヨタの経営陣に人を送りたいと云う意向もあり、これらのことについて去る2月18日に金融業者との懇談会を行った。更に我々としては、第一に金融筋への信用回復すること、第二に技術の先行を是正して、経営をスッキリした形にしたいと思うので、既に経営陣を対外的にも対内的にも強化し、更に販売会社の設立を一日も早くと努力しているのである。3

喜一郎社長は、販売会社を設立して月賦販売制度を確立すれば、代金回収問題は解決されると考えていたのである。

銀行や、労働組合の理解4を得たのち、販売金融体制の確立と販売力の強化を目的に、トヨタ自工の販売部門を分離独立し、1950年4月3日にトヨタ自動車販売株式会社(トヨタ自販)を設立した。社長には神谷正太郎が就任し、本社はトヨタ自工名古屋事務所内旧販売部が所在した名古屋市中村区笹島1丁目221に置かれた。

当時、トヨタ自工は制限会社に指定されていたため、トヨタ自販へ出資することはできなかった。そこで、同社の資本金8,000万円(160万株)は、トヨタ自販の役員および課長以上の幹部に就任が予定される神谷正太郎(社長)、大西四郎(常務)、花崎鹿之助(取締役)、九里検一郎(監査役)、加藤誠之(月賦販売部長)ら18人が出資する形をとった。

なお、トヨタ自工は1951年4月11日に制限会社の指定を解除され、トヨタ自販の「第6期(1952年10月~1953年3月)営業報告書」に初めて大株主として記載されている。トヨタ自工の所有株式数は90万株で、株式総数400万株の22.5%を占めた。5

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