第8節 本格的乗用車トヨペット・クラウンの登場

第4項 自動車市場の変化

国民車構想

1955(昭和30)年1月のトヨペット・クラウンの登場は、各界の注目を集め、日本の自動車産業に新たな展開をもたらした。その一つに「国民車構想」がある。

通商産業省自動車課は、1955年5月18日に国産自動車技術を前提とする「国民車育成要綱案」を発表した。国民車の条件は、最高時速100km以上、定員4人、エンジン排気量350~500cc、燃費30km/L以上、販売価格25万円以下である。この条件を満たす自動車を募り、試作車の試験により量産に適した1車種を選定し、財政資金を投入して育成を図るとの構想であった。

この国民車構想に対しては、自動車業界からもさまざまな案や意見が表明されたが、最終的に1955年9月8日の自動車工業会理事会で、25万円程度の国民車の開発は不可能という結論が出された。ところが、同年12月初旬になって、自動車部門への進出を企図する小松製作所の河合良成社長が、国民車構想に沿った小型乗用車の生産を準備していることを発表したのである。西ドイツのポルシェ社に基本設計を依頼し、車両価格を30万円に抑える計画であったといわれる。この計画にトヨタ自販の神谷社長が関与していたところから、トヨタ自工はその対応に苦慮することになった。1

じつは、トヨタ自工では豊田英二専務の指示により、1955年5月に国民車構想と比べて一回り大きいFF式(フロントエンジン・フロントドライブ)の小型乗用車の開発に着手していた。同年9月にはこの小型乗用車に「1A」、搭載するエンジンに「4E」の開発ナンバーを付与した。

1A試作車の第1号は、1956年8月に完成した(表1-44)。トヨタ自工は、国民車構想をめぐって憶測が生まれていたこともあり、9月22日に報道機関やタクシー業界の関係者を挙母工場に招き、開発中の試作車を発表するという異例の公開を行った。

表1-44 1A試作車の仕様(1956年)

項目
内容
型式
前輪駆動式、2ドア
エンジン
空冷水平対向2気筒
4ストローク、698cc
全長
3,650mm
全幅
1,420mm
全高
1,385mm
ホイール・ベース
2,100mm
(出典)
『トヨタ新聞』第201号、1956年10月2日

しかし、1A試作車は、FF車として所期の性能を実現できなかった。そこで、開発番号を「11A」に改めたうえで、4Eエンジンを搭載するFF車の試作を継続し、1958年7月に第2次試作車の製作を終えた。ところが、この11A試作車も性能を満たすことができず、1959年5月には基本的な諸元のうちFF式をFR式(フロントエンジン・リアドライブ)に変更することになった。第3次試作車は、「68A」の開発ナンバーで製作に着手し、1960年4月に完成した。68A試作車の車両型式は「UP10型」と決まり、4Eエンジンは「U型」エンジンと呼称された。1960年10月には全日本自動車ショーに大衆車として出展するとともに、車名の公募を実施し、1961年6月に「パブリカ」の名称で発売した。

このように、国民車構想に端を発した新車開発は、紆余曲折を経たものの、初代パブリカの誕生という成果をもたらし、新たに大衆車市場を出現させた。

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