トヨタジープBJ型の誕生

1950年、当時の米軍と警察予備隊からの要請を受け、トヨタでは小型四輪駆動車の開発に着手し、翌年1月に試作車が完成した。そしてこの車両は「トヨタジープ」と名付けられた。

ランドクルーザーの歴史は、第二次世界大戦後間もない1950年に始まる。1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾して終戦を迎えた。その直後、当時の東久邇内閣は軍人の退職金や軍需産業に対する損失補償等のため、大量の赤字公債による臨時軍事費の支出を認めた。さらに軍需から民需産業への転換資金として、銀行貸出金が増大していった。こうして通貨が大量に出回ったことが、戦後の困難な経済条件と絡み合い、猛烈なインフレが進行して国民生活は混乱を極めたのである。

1946年には預金封鎖や戦時補償の打ち切りを決定するなど、政府によってインフレ防止策がとられ、生産物資は配給統制の下におかれた。しかし、インフレは一向に収まる気配を見せなかった。さらに1948年には米ソの対立が深刻化し、毛沢東率いる中国共産党が華北民主連合政府を樹立、北朝鮮の金日成が朝鮮民主主義人民共和国の成立宣言を行うなど共産主義の脅威が顕在化し、国際情勢も流動的になってきた。この頃トヨタの生産内訳を見ると、トラックやパーツ、自動車修理に加え、洗面器・やかん・コーヒーポットなどの品目を見ることが出来る。

この年の12月、日本を極東における自由主義陣営の砦とすべく、アメリカは日本の早期自立化を目指して経済9原則を命令した。この経済安定策は翌年来日したドッジ公使によって実施されたため、一般に「ドッジライン」と呼ばれている。この超緊縮財政策によって悪性インフレは収まったものの、急激な政策転換は生産活動の鈍化をもたらし、産業界はより深刻な不況を迎えることになった。

この不景気は自動車産業を直撃し、資金繰りが苦しくなって、生産計画の修正や人員整理を余儀なくされた。これによって労働争議が頻発し、トヨタでも1950年4月に最大規模の労働争議が起こった。そして豊田喜一郎社長をはじめほとんどの役員が経営責任をとって退任する中、ようやく6月に争議が集結した。しかし、争議期間中の生産は落ち込み、毎月数百台程度の生産しか達成できなかった。トヨタにとって、どん底の時代である。 この年の6月25日、突然北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)が韓国に武力侵攻し、朝鮮戦争が勃発した。

米軍を主体とする連合軍の占領下にあった日本は、この戦争における補給基地の役割を演じ、一気に軍需物資の生産がフル稼働状態となった。占領軍在日兵站本部からも、大量の軍用トラック発注があったのである。これがいわゆる「朝鮮特需」である。またこの戦争がきっかけで、連合軍の負担を減らして日本独自の防衛力を養う目的から、警察予備隊(自衛隊の前身)が創設されることになった。