第3節 豊田喜一郎の自動織機開発

第1項 豊田喜一郎の豊田紡織入社

米欧視察へ

1921(大正10)年、上海の紡績工場(豊田紡織廠)が完成し、同年5月初頭に完成披露式が行われた。母浅子や利三郎夫妻は式典に出席するため、上海に出向いたが、豊田喜一郎は名古屋の工場にとどまり、仕事の勉強を続けた。

その上海で、喜一郎と利三郎夫妻の米欧視察旅行が決まった。1のちに、喜一郎が「私も先年外国へ行った時何か良い自動織機はないものかと色々調べても見、之に対する研究もしましたが思わしいものが見当たらず空しく帰って参りました」と述べている2ように、視察旅行の目的には英国での自動織機の調査研究があった。

1921年7月29日、喜一郎は利三郎夫妻とともに、横浜から春洋丸に乗船し、米国に向かった。前日には、小林秀雄、抜山四郎ら高校・大学同窓の友人4人が集まり、送別会が開かれた。

サンフランシスコに到着したのは8月14日である。米国では、9月まで綿花栽培地や綿業地、繊維機械工業などの視察に費やした。そのあと英国へ向かい、10月1日にロンドンに到着した。

英国でも、精力的に綿業地や繊維機械工業の視察を行った。喜一郎は、プラット社で研修を受けるため、1922年1月15日から1月末までの半月ほど、利三郎夫妻と別れてオールダムに滞在した。プラット社での紡績機械の製造工程、製造方法に関する研修期間中も、管換式自動織機の研究に努めた。

そして、1922年2月下旬、喜一郎たちはマルセイユから箱根丸に乗船し、途中上海に立ち寄って帰国した。

プラット社で喜一郎が受けた研修は、のちに豊田自動織機製作所で織機や紡機を製造する際に役立っており、この視察旅行は喜一郎にとって大変有意義なものとなった。

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