第5節 戦時下の研究と生産

第10項 統制経済下の自動車業界

部品製造業の統制

1936(昭和11)年9月にAA型乗用車やGA型トラックを発表した当時、わが国の部品工業は未成熟であり、電装品、キャブレター、スピードメーター、プラグなどは輸入品が用いられていた。既述のように豊田自動織機製作所自動車部が電装品やゴム部品の社内開発に着手したのは、同月に自動車製造事業法の許可会社に指定され、国産部品の使用が義務づけられてからである。同時に、豊田英二や立松巌たちによって、機械加工部品、プレス部品、鍛造部品など、部品工場の調査が進められ、一つひとつ仕入先が開拓されていった。

一方、自動車の品質・性能を高めるには、部品の質的向上が欠かせないと判断した商工省は、自動車部品製造業の育成措置として、1938年3月11日に「優良自動車部分品及自動車材料認定規則」を公布した。当初30社の製品が「優良自動車部分品」として認定され、これらの認定会社により「認定自動車部分品工業組合」が設立された。同組合には優遇措置が与えられたこともあり、組合員数は年々増加をみた。また、認定を得られなかった部品製造業者(年産額12万円以上)は、東京、大阪、名古屋、横浜の各地方別に「地方自動車部分品工業組合」を結成した。そして、この両組合が参加して、1938年7月1日には「全国自動車部分品工業組合連合会」が設立された。これらの各自動車部分品工業組合は、既述の「物資動員計画(物動計画)」が実施されるに伴い、部品製造用原材料の配給機構となった。さらに、1941年に設立された自動車統制会の下部機構として「日本自動車部分品工業組合」が設けられ、前記の全国自動車部分品工業組合連合会および関係組合は解散した。1

こうした部品工業の育成、組織化を背景に、トヨタ車の部品も逐次輸入品から国産品に切り替えられていった。2また、トヨタ自工は、原材料の量・価格が統制されるなかで、協力工場の代表者と意見交換を行う場として、1939年11月7日に東京新橋の蔵前工業会館で、第1回トヨタ自動車下請懇談会(国産自動車下請工業確立助成座談会)を開いた。この会合では、病気のために欠席した豊田喜一郎に代わり、大野修司購買課長が託された原稿をもとに、挙母工場の稼働とともに導入を予定していた「ジャスト・イン・タイム」の構想が、原材料の統制により事実上不可能になったと説明した。3

この懇談会は「協力会」と名づけられ、継続的に実施されることになった。その後、トヨタ自工と協力会の関係は緊密化が図られ、1943年12月には親睦を主体とした組織を強化して、名称も「協豊会」に改めて再出発した。4

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