日本

広告・宣伝の変遷

1956~1960年(昭和31~35年)

モータリゼーションの推進のために

昭和30年代になると、世情は安定し、テレビの出現や家庭電化製品の普及など、乏しい戦後の生活から、生活を楽しむ時代となる。

日本経済の着実なあゆみとともに、国民所得も上がり、自動車は「夢から現実のものへ」と変わりつつあった。

この時流のなかで、当社はモータリゼーション推進のために、各種イベントに積極的に取り組み、自動車学校開設による免許取得者の増大や、同好会などを通じてのクルマの普及に努めた。

その一方では「自動車を大衆のものへ」の理念のもと、いち早く、大衆車の開発に着手し、「クラウン」の好調をバックに、「コロナ」による新市場開拓や大衆車「パブリカ」の発表へと広げていった。

西暦
和暦
沿革
1956
昭和31
4
朝日新聞社主催で「トヨペット クラウン」によるロンドン~東京5万kmドライブ
5
「トヨペット ライトトラック」の愛称を一般公募、「「トヨエース」と決定
12
業界で初のテレビ提供番組「桜井ミュージカル」を日本テレビより放映
1957
昭和32
5
名古屋に大規模な中部日本自動車学校を開校、自動車運転免許取得者の増大に乗り出す
8

豪州1周ラリーに参加した「クラウン」

豪州1周ラリーに国産車として「クラウン」初参加。
完全走破し、外国車として3位に入賞
8
「コロナ(ST10型)」が50台あたる「30万台生産達成謝恩セール」を実施、抽選会を東京・日劇で華々しく行う
12
産経新聞社主催の南米大陸3万km踏査に「ランドクルーザー」を提供
1958
昭和33
6
読売新聞社とタイアップ、わが国最初の本格的ロードレース全日本一周読売ラリー開催
8

数寄屋橋ネオン塔への「コロナ」実車展示

数寄屋橋のネオン塔に、「コロナ」ST10型の実車を展示、話題となる
―「クラウン(RS21型)」発表後は「クラウン」に変わる
1960
昭和35
2
新型「コロナ(PT20型)」の発売を前に、画期的なティーザーキャンペーンを展開、反響を呼ぶ
10
中日新聞社主催で、新型「コロナ」(輸出仕様車)による国産車初の世界一周出発。翌年7月欧米全コース6万kmを走破
10

「パブリカ」愛称募集審査風景

大衆車「パブリカ」発売を前に愛称を一般公募、約108万通の応募を記録

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