第1節 元町工場の建設とTQCの導入

第2項 新型コロナPT20型の生産、販売

2代目となる次期コロナの第1次モデル(30A)試作車は、1959(昭和34)年2月に完成した。本来ならば、同年8月の元町工場の完成とともに生産を開始する予定であったが、開発が遅れているため、第2次モデル(55A)試作車として開発は継続された。同年9月に、55A試作車にPT20型の型式名が設定されたものの、なお走り込みによる改良が必要な状態であった。しかし、競合他車との関係からそれ以上の遅延は許されず、2代目コロナPT20型の発売時期は、1960年4月に決定された。新型コロナの開発に並行し、3年間にわたって生産準備が進められてきたが、車両開発の遅れからプレス金型や車体組付溶接ラインの準備に支障をきたし、生産面からもボデー強度に問題を残すことになった。

1960年3月、社内外の期待を担って開発されたトヨペット・コロナPT20型を発表した。「新しくないのはタイヤが4つあることだけ!」というキャッチフレーズが示すとおり、駆動系と足まわりの一部にクラウンと共通部品を使ったほかは、すべてが新しく設計された小型乗用車であった。1

続いて4月6日に東京・千駄ヶ谷の東京都体育館で発表会が行われた。日本で最初のティーザー・キャンペーン2が功を奏して、この日、会場には4万人近い人々が来場し、5,000m2のフロアに展示された7台の新型コロナは、たちまち人波にのまれてしまう盛況であった。

新型コロナは、車格としてはフォルクスワーゲンよりも1ランク上のヒルマンなどに近い線をねらったもので、販売対象の重点を自家用車に置いていた。

ボデーは「低く、広く、美しく」をモットーに、全体として直線的でスピード感を持たせるようにし、さらに乗り降りの便を考えてセンターピラーを傾斜させるなど、ユニークなデザインであった。来日したイタリアのカーデザイナー、ピニン・ファリーナにも絶賛されるなど、評判の高いものであった。3機構面では、従来の国産乗用車には見られない多くの新機軸を採用していた。

しかし、この新型コロナは発売後まもなく、生産面でトラブルが発生したり、販売した後も一部のユーザーからクレームが発生するなど、生産・販売は順調なものではなかった。トラブルの根本的な原因は、既述のとおり、既存車種の部品を転用して開発した初代コロナの評価が低く、それを早急に変える必要があったので、開発が遅れている新型コロナの生産を、無理を承知で急いだことにあった。具体的には以下のとおりであった。

  1. 1.新機軸のうちの一部のものは、理論上だけの理想を追求するに急なあまり、実車として十分な走行試験を済ませていなかったこと。
  2. 2.生産準備面では、重要なプレス型ならびにボデー組付ラインの整備が不完全であったこと。
  3. 3.実際の生産に際しては、元町工場という最新鋭設備を備えながら、管理面ではそれを活用するに十分な体制が未整備であったこと。

この貴重な体験は、のちにコロナの次期モデル(3代目)の開発に生かされることになる。4そして、当面の対策として、PT20型コロナの改良に取り組んだ。PT20型コロナのP型エンジン(997cc、45馬力)をR型エンジン(1,453cc、60馬力)に載せ替えた対米輸出専用車トヨペット・ティアラ(RT20L型)を国内向け仕様に変更し、1961年3月にトヨペット・コロナ1500(RT20-B型)として発売した。この発売後まもなく、PT20型の生産は打ち切った。さらに、同年10月に自家用ユーザーの要望に応えてトヨペット・コロナ1500デラックス(RT20-D型)を発売した。

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