第3節 北米で現地生産をスタート

第3項 北米へ単独進出―TMMとTMMCの設立

1985(昭和60)年2月、トヨタは海外事業室に北米生産検討チームを設置した。現地生産から販売に至るまでの可能性や将来性を仔細に検討することが目的であった。ニュー・ユナイテッド・モーター・マニュファクチャリング(NUMMI)が生産を開始した時期にあたり、その立ち上げ作業と並行して、役員の間でも北米生産について頻繁に討議が行われていた。

当時、トヨタ車の北米での販売は100万台に達し、雇用の面などで現地経済に寄与する全額出資の製造会社を設立するべきとの意見が強まった。また、輸出自主規制の影響でトヨタ車は供給不足に陥っており、単独進出による供給量の拡大が重要課題となっていた。これらの点から、トヨタでは1985年7月の臨時取締役会で米国およびカナダへの単独工場の進出を決定し、正式に発表した。米国では2,000cc級の乗用車を年産20万台規模、カナダでは1,600cc級の乗用車を年産5万台規模とし、いずれも1988年中に立ち上げる計画であった。

1985年8月、北米生産検討チームを海外事業室から分離し「北米事業準備室」を発足させた。あわせて、その上部機関として辻源太郎副社長を委員長として、7人の役員による「北米プロジェクト委員会」も設置した。進出地は米国、カナダともに公募によることとし、その決定が最初の大きな仕事となった。進出を発表した直後から誘致が相次ぎ、米国では29州、カナダでは8州からオファーが寄せられた。

準備室では、各州から届いた資料をもとに、部品調達、物流、電力、労働力、治安、州の優遇措置などを分析・評価して選考資料をつくりあげた。用地選定に際しては役員が分担して候補地を回り、さまざまな条件を現地で確認していった。こうして1985年12月に米国の工場建設地をケンタッキー州スコット郡ジョージタウン近郊、カナダについてはオンタリオ州ケンブリッジ市に決定し、豊田英二会長、豊田章一郎社長がそれぞれ現地で発表した。このうち、ケンタッキー州の記者会見では、200人を超える報道陣を前に豊田社長は次のように語った。

工場用地の選考はトヨタの歴史のなかで最も困難なことの一つであったが、最終的にすべての条件を考慮し、ケンタッキー州が最適と判断した。プロポーザルを提出していただいたすべての方々に改めて感謝したい。本日の工場建設地の決定は、トヨタにとって1935年の第1号試作車誕生以来ともいえる大変光栄な一瞬である。

1957年のアメリカへの輸出開始から25年以上を経て、「アメリカの皆様と完全なパートナーシップを築きたい」という夢が実現に向けて大きく前進しようとしている。今後は雇用や経済成長に貢献すると同時に、皆様のお役にたてるような新しい関係を築くよう努力したい。

また、この発表会見では、トヨタ本社を訪問するなど熱心に誘致活動を行った同州のマーサ・コリンズ知事をはじめとする来賓から歓迎のメッセージを受けた。

1986年1月、米国とカナダの現地法人としてトヨタ・モーター・マニュファクチャリング・USA(TMM、現・TMMK)、トヨタ・モーター・マニュファクチャリング・カナダ(TMMC)の2社が発足した。両社の社長には生産部門と北米事業部門を統括し、NUMMIの生産準備にも携わった楠兼敬副社長が就任した。TMMは米国トヨタ(TMS)80%、トヨタ20%の出資、TMMCはトヨタの全額出資であった。工場の建設にあたっては労使関係、人材育成、設備の導入・運営、物流システムの構築、さらには地域社会への貢献活動などでNUMMIでの経験が大いに生かされた。一方、NUMMIでは元ゼネラル・モーターズ(GM)社の従業員を引き継いだが、TMMではすべての従業員を新たに雇用することとなり、その際に多種多様な人材を公正なプロセスで選考するよう十分配慮した。また、ケンタッキー州に自動車工場がなかったことから幹部以外は経験者がゼロであり、自動車づくりの基礎を重視するなど研修内容にも工夫を凝らした。親工場制も採用され、カムリを生産するTMMは堤工場、カローラのTMMCは高岡工場が指定された。

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