豊田製鋼株式会社の設立

自動車製造に欠かすことのできない特殊鋼を開発するための製鋼所は、1934(昭和9)年に稼働を開始し、部品製造に必須の工作機械を製作する工機工場は、1937年に稼働を開始した。これらの事業は、「製鉄事業法」(1937年8月13日公布)、および「工作機械製造事業法」(1938年3月30日公布)の制定以前に、豊田喜一郎が着手した事業であり、“時流に先んずる”ものであった。両事業とも順調な発展を示したが、一層の拡充を図り、より幅広い役割を果たすため、前者は1940年に「製鉄事業法」に基づき、後者は1941年に「工作機械製造事業法」に基づき分離独立された。

さらに、ゴム部品製造事業が分離・統合され、紡績業の要員や設備が軍需産業に転用されるなど、企業経営は国策によって大きく揺れ動いた。このような情勢のなかで、自主的判断による車体製造事業の分離独立は、来るべき平時への準備となった。

既述のとおり、製鋼メーカーの鋼材は品質・形状ともに一定ではなく、自動車の大量生産には不向きであった。そのため、トヨタ車の生産増強に伴い、豊田自動織機製作所製鋼部への依存は一層高まった。

1938(昭和13)年3月8日には製鋼設備を月産500トン拡充することを決定した。工場用地は挙母工場へ移転後のトヨタ自工の跡地を利用し、自動車ボデー工場跡に第2工場を新築して小型圧延機を移設したうえで、小型圧延機のあった第1工場に4トン電気炉2基を増設し、第1工場西側に中型圧延機を新設する計画であった。この増設工事は、1939年5月までに完了した。

当時、「製鉄事業法」による許可会社は免税の特典があった1が、豊田自動織機製作所はその許可を得ていなかった。また、製鉄会社として経営を維持していくには、刈谷の工場用地では限界があった。そこで、製鉄会社の設立を前提に、新たに用地を取得することになり、刈谷の製鋼工場増設と並行して工場用地の選定を進めた。立地は臨海部の知多郡上野村(現・東海市)に決まり、1939年5月に34万m2の用地買収が完了した。2同年8月25日には「製鉄事業法」に基づき知多工場の建設が認可され、ただちに埋立・造成工事が開始された。

一方、新会社設立の申請は、1940年2月23日に「製鉄事業法」による許可を受けた。そして、翌3月8日には豊田自動織機製作所から製鋼部が分離独立し、豊田製鋼株式会社が設立された。同社の本社は愛知県知多郡上野町大字荒尾字ワノ割に置かれ、資本金は1,700万円(510万円払込済み。豊田自動織機製作所の出資比率90.1%)であった。社長は豊田利三郎が務め、副社長に豊田喜一郎、常務取締役に岡部岩太郎が就任した。その後、1945年11月に豊田製鋼は愛知製鋼と改称された。3

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