第1節 バブル崩壊後の日本経済・国内市場

第3項 経済界のリーダー役に

バブル経済の崩壊から超円高へと日本経済が混迷を深めるなか、自動車産業およびトヨタへの経済界におけるリーダー役としての期待が高まっていった。

戦後の日本ではエネルギー産業の石炭、軽工業の繊維、さらに中核的な素材産業の鉄鋼が時々の基幹産業として経済復興の原動力となってきた。繊維や鉄鋼はいち早く海外市場でも競争力を備え、1960年代から1970年代前半にかけては米国との貿易摩擦を激化させた。このため、鉄鋼は1966(昭和41)年から、繊維は1971年から対米輸出の自主規制措置を余儀なくされた。

1970年代後半にはこれらの産業に代わって、自動車が日米間で最大の通商問題となった。実際、鉄鋼や繊維のあとを追うように、1981年度からは乗用車の輸出自主規制が行われたが、そのことは高度加工型の自動車が基幹産業として雇用の創出や外貨獲得など、日本経済を支える存在に発展したことも意味した。

トヨタは工販が分離される1950年の経営危機時から再建を進める過程で、財界の活動とは距離を置いてきた経緯があった。しかし、日本経済のなかで自動車産業の存在感が高まるにつれ、トヨタの経営首脳もその責務として、財界活動の必要性を認識するようになった。1984年5月には豊田英二会長が経済団体連合会(経団連、現・日本経団連)、花井正八相談役が日本経営者団体連盟(日経連、現・日本経団連)の副会長にそれぞれ就任し、中央財界での活動が本格化していった。1992(平成4)年4月には豊田達郎副社長が経済同友会の副代表幹事に就き、活動団体の幅も広げていった。

1999年5月には奥田碩社長が日経連の会長に就任した。当時は雇用情勢が悪化していたため、「人間の顔をした市場経済」と「多様な選択肢をもった経済・社会」を活動の理念に掲げ、企業の安易なリストラに警鐘を鳴らした。また、2000年から今井敬経団連会長との協議を進め、2001年末に経団連と日経連の統合に関して合意を成立させた。

2002年5月に日本経済団体連合会(日本経団連)が発足し、奥田会長がその初代会長に就任した。その就任会見では敗者にも再チャレンジの機会を与えるような社会を目指すべきという考えを表明した。活動の理念には「多様性のダイナミズム」と「共感と信頼」を据え、2003年1月には具体的な活動指針として「奥田ビジョン」をまとめた。22006年5月までの任期中には、歳出入改革における国のプライマリー・バランス(基礎的財政収支)黒字化への取り組みなど、財政健全化への動きを後押しした。

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