第5節 戦時下の研究と生産

第6項 トラック生産と鋼材不足

豊田自動織機製作所自動車部がG1型トラックを発売した1935(昭和10)年当時、日本内地の年間鋼材生産高は381万トン(普通鋼374万トン、特殊鋼7万トン)であった。わが国の鉄鋼生産は原料の大部分を屑鉄が占め、同年の屑鉄消費量は298万トンに達していた。屑鉄の輸入は、年間100万トン以上を米国に依存し、1940年には米国からの輸入が途絶したため、以後日本では鉄鋼不足が深刻化した。なお、鉄鋼生産高の戦前ピークは、1943年の765万トンで、屑鉄消費量は417万トン(国内99%)である。

自動車用鋼材は、こうした量的不足に加えて、質的な面でも大きな課題があった。鋼材の重要性を認識していた豊田喜一郎は、当初から製鋼所を設置して自動車用鋼材の研究開発を推進し、必要な鋼種の開発が一段落したら、その製造を専門の製鋼メーカーに任せる方針をとった。しかし、屑鉄を主原料とする製鋼メーカーの鋼材は、不要な合金成分が混入していたため、同じ規格の鋼種であっても、製鋼メーカーごとに組成・性状が異なった。さらに、寸法・形状もまちまちで、大量生産には不向きであった。

したがって、品質の確認できる鋼材を入手したければ、自前の製鋼所で生産しなければならなかった。喜一郎は、品質の良い自動車の大量生産にとって、切削性(マシナビリティ)が良くて、耐久性(デュアラビリティ)に優れた鋼材が必要であると考えていた。1

1939年にはトヨタ自工の増産に対応して、豊田自動織機製作所製鋼部では生産能力の増強を図り、挙母工場の完成後に生じた空きスペースを利用して、4トン電気炉2基の増設を行った。これらの装置は、同年5月から稼働を開始した。2

既述のとおり、1940年1月から同年末にかけて、製鋼所ではルイス・ヘンリー・ベリー技師から指導を受けた。同年春ごろ、監査改良課主任の齋藤尚一が製鋼所へ派遣され、齋藤はベリー技師の通訳兼助手を務めながら、グレンサイズ3などの製鋼技術を半年間ほど学んだ。4

また、ベリー技師の助言から、製鋼原料の処女性(清浄性)が重要な要素であると、喜一郎は考えるようになった。その取り組みの一環として、各種成分が混在する屑鉄ではなく、清浄な製鋼原料を入手するため、1940年9月に齋藤を中国大陸へ派遣して調査にあたらせた。5清浄な製鋼原料を研究しながら、製鉄原料不足への対応を模索したのであるが、絶対的な鋼材不足を解決することは難しかった。

このように、量・質ともに鋼材が不十分な状況のなかで、トラックの開発・生産が続けられた。1940年1月にはGB型トラックの改良を実施し、エンジン出力を75馬力から78馬力に高めたほか、エンジン冷却効率の向上や足まわり関係の強化などを行った。

一方、商工省自動車技術委員会(1939年8月発足)における標準型式の検討過程で、トラック積載量の増大が要請された。これを受けてトヨタ自工では、GB型トラックを大幅に改造した新型トラックの開発を決定し、1942年3月から4トン積みKB型トラックの生産を開始した。

翌1943年7月14日には自動車技術委員会によって、戦時型トラックの規格が正式決定された。トヨタ自工は、その規格に基づいてKC型トラックを開発し、同年11月にKB型から切り替えた。KC型トラックは、鋼材不足に対応するため、従来のトラックに比較して3割程度(260~300㎏)の鋼材を節約した設計であった。KB型とKC型トラック・シャシーの仕様は、表1-8のとおりである。

表1-8 KB型・KC型トラック・シャシーの仕様(1943年)


KC型トラック・シャシー
KB型トラック・シャシー
エンジン
B型(3389cc、78馬力)
B型(3389cc、78馬力)
ホイール・ベース
4,000mm
4,000mm
全長
5,715mm
6,150mm(車両全長)
全幅
2,067mm
1,980mm
自重
1,680kg
1,865kg
(出典)
「トヨタ・トラック ホヰールベース4.00米」カタログ(1943年)、(KC型)「トヨタ・トラック仕様書」から抜粋。
「トヨタトラック ホヰールベース4.0米」カタログ(1942年4月)、(KB型)「2602年式トヨタ・トラック仕様書」から抜粋。

そのほか、エンジン冷却用の黄銅板を鉄板で代用する研究を進め、1940年ごろに熱伝導の見地から代用し得ることを証明した。6銅合金の不足はより深刻で、鉄板を代わりに使わなければならない状態であった。

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