第3節 排出ガス規制への対応

第4項 あらゆる可能性の追求

1970年代(昭和45年以降)、トヨタでは開発企画室を中心に技術各部は、総力をあげて排出ガス浄化技術の開発努力を続けた。排出ガス対策はいわば技術的には未踏の領域であり、これまでの技術の延長線上では解決できない問題であった。

とくに、CO、HC(炭化水素)、NOx(窒素酸化物)の3つの成分は、空気とガソリンの混合比いかんによっては相反する発生状態を示し、3成分を同時に減少させることは至難の技であった。

また、排出ガス対策を施した車両を商品として市場に出す以上、これに付随して発生するエンジンの出力の低下、燃費や運転性能の悪化、対策部品の劣化、さらにはコストアップなどの諸問題もあわせて解決しなければならなかった。

トヨタの技術陣はこうした諸問題を解決するため、あらゆる可能性を追求した。まず手がけたのは、触媒を用いた排出ガス対策システムの開発である。これは、できるだけ従来のままのエンジンで性能を維持し、触媒で排出ガスを浄化するというもので、排出ガス中のCO、HCを再燃焼させるためのエアインジェクション1、排出ガスの一部を吸気系へ再循環させてNOxを低減させるEGR(排出ガス再循環装置)などを触媒コンバーター2に組み合わせる方法である。

燃焼制御によるエンジン自体の改良も研究した。均質な希薄混合気を安定的に燃焼させ、燃焼段階でCO、HC、NOxの発生を抑える希薄燃焼方式は、燃費の改善にもなるが、混合気が薄いために着火性が悪化し、燃焼が不安定になるなど、開発・実用化には大きな困難が伴った。1972(昭和47)年末には、燃焼制御方式の一つとして本田技研工業が開発した複合渦流(調節燃料/CVCC)方式も導入し、希薄燃焼技術の研究・改良を進めた。1964年から研究を進めていたガスタービンエンジン、1967年から始めたロータリーエンジン、電気自動車などの開発も積極的に進めた。

こうして排出ガス対策のあらゆるシステムを追求するなかで、1971年末には、触媒方式を主体として排出ガス対策に取り組む方針を決定した。排出ガスの浄化だけでなく、燃費、運転性能、サービス性、コストなどを総合的に判断した結果であった。

方針は決定したものの、技術陣の前途には問題が山積していた。触媒は外的条件に敏感な物質であり、それまで使用されていた化学工業などの装置と異なり、自動車に使用するとなると、使用条件が広範囲に変動する。加えて、触媒メーカーは試供品のトヨタでの分析を禁止し、触媒メーカーでの調査結果は、後日知らせるという進め方であった。

トヨタは、こうした進め方では要請されている開発ペ-スに合わないと判断し、触媒そのものから自社で開発することにし、豊田中央研究所の協力のもとに、1971年2月、第5技術部に触媒開発グループを設置した。同グループは早速、5,000種類もの触媒の試験を開始した。そして、エンジン担当者と触媒担当者とのやりとりを通して、触媒に送る排出ガスと触媒の浄化率についての「最適適合」を見出すという大仕事に取り組んだ。

信頼性の確保も難問題であった。開発期間もテスト期間も短く、そのうえ短期間に全車種に対策を施すことを迫られていたため、米国の宇宙産業などで信頼性手法として確立していたFMEA手法3を用いて取り組んだ。対策部品だけでなく個々の部品のトラブルやバラツキが排出ガス浄化システム全体の信頼性にどのような影響を与えるかについても、設計段階から一つひとつ綿密に調査していき、重要なものから対策を施していった。

生産面では、限られたリードタイムで排出ガス対策部品の量産化を果たすため、1972年7月に特殊部品製造企画室を設置し、排出ガス対策部品の製品化とその生産準備に取りかかった。開発途上にある排出ガス対策部品はいつ変更になるかもわからず、仕入先にリスクを負担させられないため、対策部品が安定するまでは内製するという方針でスタートした。しかし、触媒コンバーターひとつとっても温度の急激な変化に耐える容器の材質を選定し、その量産方法を考え出すのは、未経験の分野だけに苦労の連続であった。

新製品の生産にあたっては、その製品が短期間のうちに打ち切りになって投資が回収できないことがあるが、それを恐れて躊躇するわけにもいかなかった。また、触媒に使用するプラチナやパラジウムなどについては、1972年12月に産出する諸国に赴き、直接、購入契約を締結した。

排出ガス対策部品を生産する新しい工場の建設計画も進めた。1973年1月、取締役会で建設計画が承認され、翌2月に下山工場建設委員会が発足した。新しい工場用地は愛知県西加茂郡三好町下山地区4に決定した。1969年から機械工場の建設用地として取得を進めていたが、一部の反対があり買収は難航した。しかし、1971年末には、町当局はじめ地元の尽力によって約42万m25の用地買収を完了することができた。

下山工場の建設用地では1973年4月に地鎮祭が行われ、61974年8月には第1工場の建設工事を完了した。しかし、石油危機後の情勢変化のため、下山工場の操業開始時期を当初予定の1974年8月から1975年3月に延期した。この間、排出ガス対策部品は三好工場を主生産工場とし、下山工場はそれをバックアップする形をとった。こうして1975年3月、下山工場はM型系エンジン部品を生産し操業を開始した。

また、排出ガス対策車の品質保証に万全を期すため、1973年8月に号口排出ガス情報処理システム(ECAS)の開発に着手した。1974年11月に同システムがスタートして、浄化性能が十分かどうかをコンピューターで全数チェックし、1台1台の測定データを統計処理して、不良箇所を即座にはじき出せるようになった。7

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