第2節 豊田佐吉の事業

第2項 豊田紡織株式会社の設立

米欧視察旅行

豊田式織機株式会社の技師長を辞任した豊田佐吉は、1910(明治43)年5月、西川秋次1を伴って米欧視察旅行に出かけた。

豊田式織機株式会社での佐吉と紡績業者の対立は、その事業を推進した三井物産の藤野亀之助大阪支店長にとって、想定外の事態であった。冷却期間を置くためにも、海外旅行は最適であり、三井物産は佐吉の米欧視察旅行を全面的に支援した。佐吉は、三井物産ニューヨーク支店長の計らいで、ボストンを中心に機業地の織機業者を見学し、自らが開発した織機に対する自信を深めるようになった。

一方、佐吉はニューヨーク在住の高峰譲吉博士を訪問し、発明について意見を交わす機会に恵まれた。ジアスターゼやアドレナリンを発見した化学者として知られる高峰博士は、農商務省の専売特許局局長代理を務め、特許制度の整備に尽くした経験の持ち主でもあった。2発明を実用化するための試験・研究の重要性や、発明に伴う諸々の障害を経験した高峰博士の話には、佐吉としても共感するところが多々あり、その後もたびたび訪ねて懇談を重ねるうち、帰国して再起を期する自信と勇気が湧いてきた。

1910年10月、佐吉は特許権の取得手続きや紡織関係の調査を西川に託し、アメリカを発ってイギリスに向かった。そして、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロシアを訪れ、モスクワからシベリアを経由して、翌1911年1月に帰国した。

ニューヨークに残った西川は、佐吉の発明に関する特許出願手続きにあたった。対象の特許は、1910年6月6日出願の「改良自動杼換装置」(1912年2月20日登録、第1018089号)であった。3結局、西川の海外滞在は、1912(大正元)年12月に欧州経由で帰国するまで2年半に及んだ。

このページの先頭へ