第1節 対米乗用車輸出の自主規制

第3項 自主規制下での米国販売体制の強化

1981(昭和56)年度に168万台を上限に始まった対米輸出自主規制は、「外国為替及び外国貿易管理法」1に基づき、通商産業省(現・経済産業省)が自動車メーカーから毎月輸出状況を聴き取る監視方式で実施された。各社の輸出枠の基本となったのは、1979年と1980年の輸出実績である。

こうして日本の自動車メーカーは、市場開拓という自助努力による需要拡大の道が閉ざされた。米国トヨタ(TMS)は、自主規制に伴う販売台数の頭打ちにより、ディーラー各社の収益が悪化し士気が低下することを恐れ、それを防ぐための諸施策を積極的に展開した。

まず、限られた台数で効率よく収益性を高められるよう、車種構成の見直しを進めた。その象徴が1981年秋に投入した新型セリカである。高性能・高品質をセールスポイントとして拡販に努めた結果、セリカはクレシーダと並ぶ収益車種に成長し、なかでもセリカ・スープラは、米国の『モータートレンド』誌の「'82インポート・カー・オブ・ザ・イヤー」を受賞し、トヨタ車の技術イメージ向上に貢献した。

同時に、TMSでは、1981年に物流専門会社のビークル・プロセサーズ社(VPI)を設立し、業務の効率化を図った。また、1982年には海外では初の金融会社となるトヨタ・モーター・クレジット社(TMCC)を設立し、ディーラーの販売支援策を強化した。そのほか、1982年にカリフォルニア州トーランスに新本社屋を建設し、サンフランシスコ・リージョナルオフィスも移転・拡充するなど、自社施設の整備を進めた。

それでも乗用車は常時、在庫不足に悩まされたことから、TMSはトラックの販売増に取り組んだ。日本製の小型トラックは、乗用車と同様に米国市場に受け入れられ、1980年の輸出台数は59万台と、それまでの5年間で約3倍に増加した。このような状況に対して、米国政府は同年5月、小型トラックの関税区分の変更を決定し、それまでリヤデッキ(荷台)のないキャブ付シャシーは、「シャシー」とみなして4%であったものを、8月から「トラック」であるとみなして25%の関税賦課を開始すると発表した。

トヨタでは、1971年11月にカリフォルニア州の委託先でリヤデッキの現地生産を開始し、日本から輸出したキャブ付シャシーに架装していた。キャブ付シャシーは「シャシー」であるとの米国政府の確認のもとに順次投資を拡大していき、1974年には経営が悪化した委託先をTMSの全額出資に切り替えて再建した。その後、1980年に資本金を500万ドルに増資するとともに、社名をトヨタ・モーター・マニュファクチャリング・USA(現・TABC)に改め、トヨタ生産方式の導入による体質強化にとりかかっていた。

その矢先の関税区分変更であり、トヨタとTMSは、米財務省に不服申し立てを行い、関税裁判所に提訴した。しかし、一審、控訴審とも敗訴となり、最高裁への上告は断念せざるを得なかった。

関税の引き上げにより、トラックは値上げを余儀なくされたが、1981年度からは乗用車の輸入数量が規制されたため、TMSではトラックの増販に向けて、さまざまな施策を講じていった。その一つとして、トラックマネージャーを新たに採用し、大手のユーザーや各州政府への売り込みを強化した。また、ディーラーに対してはトラックセンターの設置を推奨したほか、好成績を収めたディーラー代表による「プレジデント・トラック・クラブ」を創設し、ディーラー表彰制度を導入した。

トヨタのトラックはハイラックスの改良により、1978年には米国で輸入車ナンバーワンになっていた。その座を堅持するため、1979年に4輪駆動車を設定したのに続いて、1981年にはディーゼル車やエキストラキャブを投入するなど、商品力の強化も積極的に推進した。

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