第5節 生産体制と販売体制の強化

第4項 米国における販売体制の拡充

1968(昭和43)年4月に米国市場に導入されたカローラは、好評を博し急速に販売台数を伸ばしていった。トヨタは、コロナ、カローラの販売増加に対応して、米国での販売、サービス体制を強化するため、1968年9月に米国トヨタの倍額増資を決定し、同社の新資本金は500万ドルとなった。

対米輸出はますます伸び、1968年には9万5,000台、1969年には15万台に達した。これに伴い、トヨタ車の米国における輸入乗用車のランキングも、1966年の第8位から1968年には第3位へ、1969年にはフォルクスワーゲン社に次ぐ第2位へ躍進した。

この時期、それまでのディストリビューター(TMDとMSTの2社)に加えて、新たに3社のディストリビューター(SET、GST、MAT)が現地資本で設立され、営業を開始した。1こうして、米国での販売体制は、当初の西海岸主体から全米をカバーする体制となった。2

1971年8月のニクソン・ショック3以後、円切り上げに伴う輸出車の値上げによって、米国の自動車市場は売り手市場から買い手市場へと急変していった。こうしたなか、米国トヨタでの経営基盤強化の取り組みが推進された。

1972年10月に、大幅な人事の刷新を行いライン部門の責任者にアメリカ人を積極的に登用した。1973年には、副社長にノーマン・リーンとエール・ギーゼルを起用した。

続いて商品政策の見直しも行い、これまでの販売主要モデルであったコロナ、ランドクルーザーに替わり、新たにカローラ、セリカ、ハイラックスの3車種を重点推販車種として打ち出した。市場から見て米国メーカーが供給していないカテゴリーで、ユーザーが望む車はどれかという観点から、重点車種を決定したのである。これ以降、この3車種は量販モデルとして販売台数アップに貢献していった。

また、1971年に米国トヨタは、ハイラックスのリヤデッキについて、カリフォルニア州のアトラス・ファブリケーターズ社と現地生産に関する契約を結び、同年11月から生産を開始していた。その後、1974年2月に米国トヨタは同社を買収し、社名もロングビーチ・ファブリケーターズ社4と変更し、ハイラックスの増販に対応した。

販売体制の強化のため、従来は一律に1年であった販売店との契約期間を実績に応じて3年契約に延ばし、あるいは経営状況の報告制度や全米を4つに分けたゾーン・マネージャー制度を取り入れていった。5アフターサービス体制については、ロサンゼルス、ニューヨーク、サンフランシスコにあったデポを増強して部品供給力を高め、各ディストリビューターの部品倉庫の増設を進めた。サービス部門ではディストリビューター、ディーラーに対する教育を充実し、サービス技能を向上させた。

1973年に史上空前の自動車ブームにわいた米国乗用車市場は、石油危機後の1974年に886万台になり、前年の1,140万台から大きく落ち込んだ。1975年、米国トヨタの牧野功社長は、全米のディーラーを回り、「あなた方の繁栄がなければ、われわれの繁栄もない。ディーラーとトヨタは共存共栄だ」と、信頼関係の重要性を説き続けた。そして、この考え方を具体的に示すため、在庫金利を負担してディーラーの負担を軽減した。こうして共存共栄という考え方が次第に理解されるようになっていった。米国トヨタは、一方でディストリビューターの整備を着実に進めた。ディーラー網の強化も順調に進み、1976年9月末には、米国でトヨタ車を扱うディーラー数は1,000店を突破し、1,014店に達した。

また、1975年12月に広告代理店を変更して、カローラ、セリカ、ハイラックスの重点3車種に広告宣伝を集中するなど、増販策を推進した。物流体制については、1977年1月のポートランドをはじめ、9カ所の港湾施設を整備し、特注の貨車による輸送を開始した。シカゴには配車センターを設けてポートランドと結び、それまでパナマ運河を通って輸送していた中北部への配車を著しくスピードアップした。これと並んで11カ所のパーツデポの整備も進め、補給部品の即納率も全米一の水準に達した。その後も陸揚げ前の配車先決定、ディーラーとのコンピューターネットワーク化などを推進した結果、1980年代には、米国におけるトヨタ車は約1週間の在庫で回るようになった。

米国トヨタがこうした努力を重ねている間に、米国自動車市場では小型車が急速に伸び始めた。好調な小型車市場のなかにあって、トヨタ車も躍進した。乗用車の販売推移で見ると、1975年には25万8,000台を販売して、低落傾向のフォルクスワーゲンに代わって、輸入乗用車のなかでトップの座を占め、その後も1976年32万台、1977年40万台と、重点車種であるカローラ、セリカを中心に伸びていった。

一方、トラックについても、ハイラックスの広告宣伝活動と増販キャンペ-ンを展開し、顧客の要望に対応してバリエーションを拡大し、販売台数が急上昇した。6

販売網の充実、ディーラーと一体となった増販策などの結果、トヨタは1977年に乗用車47万台強、商用車9万台強を販売し、自動車の本場米国に進出して以来20年余の歳月をかけて、年販60万台の体制を確立した。

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