第2節 モータリゼーションと貿易・資本の自由化

第3項 資本の自由化と自動車業界再編

1965(昭和40)年に実施された乗用車の輸入自由化により、自動車に関する貿易の自由化はほぼ完了し、残されたものはエンジンおよびその主要部品などごく一部であった。こうして、貿易および為替面での自由化はほぼ完了したが、開放経済の実現のためには、資本自由化の問題が残されていた。

日本において資本取引の自由化が問題となったのは、直接的にはOECD1への加盟が契機である。OECDは日本経済の高度成長と貿易・為替自由化の進展を高く評価し、1963年の理事会で日本の加盟招請を決定した。翌1964年4月、OECDの正式メンバーになった日本は、ヨーロッパ諸国の対日輸入制限撤廃などのメリットを享受する反面、資本自由化綱領による資本取引の自由化義務を負うにいたった。

資本自由化という試練を前に、自動車メーカー各社は量産体制の確立、自己資本の充実、技術開発力の強化に努めた。このような企業体質強化の進展に伴って、企業間競争はますます激化するとともに、その格差も認識されるようになり、業界再編成の機運が盛り上がってきた。そして、1964年にはプリンス自動車との合併について、トヨタ自工へ話が持ち込まれた。その経過について、豊田英二会長は次のように語っている。

これは東京オリンピックがあった39年(1964年)に石橋正二郎さん(元ブリヂストン会長)が持ち込んできた。(中略)

プリンスとの話はトヨタの方から断ったが、石橋さんはその辺をきちんとしており、「トヨタと縁がなければ、他のメーカーに持っていかざるをえない」と言っていた。われわれが断った時点で日産自動車と合併することはある程度予測できたし、事実その通りになった。(中略)

独禁法の関連でいえば、日産とプリンスの合併の際、公正取引委員会は「日産とプリンスが合併してもシェア(市場占有率)はトヨタを追い越さない。だからこの合併は認める」との方針を出した。ということはトップメーカーであるトヨタはどことも合併できないということになる。

(豊田英二著『決断―私の履歴書』189~192ページ)

1966年8月の日産自動車とプリンス自動車の合併を皮切りに、国際競争力の強化を目指す業界再編成も急速に進展した。

一方、米国やヨーロッパでは国内自動車市場がすでに成熟しており、新たな海外市場の開拓を迫られていた。こうしたなか、既述のとおり日本は西ドイツを抜いて世界第2位の自動車生産国に躍進したのである。欧米の自動車メーカーは、日本を有力市場として注目し、自動車の資本自由化を強く要請するにいたった。

最初に、自動車の資本自由化を要求したのは米国であった。1968年1月、日米貿易経済合同小委員会の席上、米国側は自動車の資本自由化を強く求めた。資本自由化をめぐる日米自動車交渉は難航し、やがて財界や政府部内にも自動車の自由化促進論が台頭してきた。日本の自動車産業が生産台数で世界第2位となり輸出も増加していたことから、十分に競争力がついており自由化しても大丈夫という意見であった。しかし、日本の自動車メーカーにとって、ビッグスリーの巨大な企業力は大きな脅威として感じられていた。

1969年の日本の自動車輸出は、86万台と対前年比40%の伸びを見せた。なかでも、米国向け輸出が34万台と総輸出台数の39%を占めていたため、ビッグスリーの資本自由化要請は、日増しに強まった。

一方、同年5月には、三菱重工業がクライスラーとの提携を表明し、三菱重工業65%、クライスラー35%の出資による合弁会社設立の準備を始めた。

こうした状況のなかで、1969年10月、日本政府は自動車の自由化を1970年10月からとすることを閣議決定する。合弁会社を新設する場合の外資比率は50%を限度とすること、既存メーカーへの資本参加は個別に審査することなども、あわせて決定した。

これに対し、豊田英二社長は、トヨタは早急に年産200万台体制を確立し、あくまでも民族資本を貫いていくことを社内外に以下のとおり表明した。

資本自由化に対して、トヨタのとるべき対策は量産化である。自由化実施直前まで、つまり46年(1971年)までには、年産200万台体制を確立してしまいたい。トヨタとしては、今後も民族資本を守る体制を貫く考えに変わりはない。また、これを機に業界再編成問題が再燃し、再編成は促進されようが、期待するほどスピーディにいくものではない。

ダイハツ工業、日野自動車工業への生産委託は、長い目で見れば今後増えよう。とにかく、今は関係各社を含めて一刻も早く200万台体制をつくりあげなければならない。このため現在新工場も建設中だが、ほかに工場用地を求めることも検討している。2

この時期のトヨタの方針は、次の2点に集約された。

  1. 1.国内の需要多様化に対応して車種系列を充実し、フルライン体制を確立する。
  2. 2.資本自由化に対処するため、200万台体制を当面の目標とした量産体制の確立と、それによるコストダウンを目指す。

トヨタの生産台数は、1968年に月産10万台、年産100万台を達成したばかりで、200万台はまだまだ遠い目標であった。この時点で年産200万台を超えていたのは、GM、フォードの2社だけであった。

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