第4節 豊田自動織機製作所の設立

第2項 プラット社との特許権譲渡契約

第1次世界大戦は、戦勝国である英国の産業にも大きな変化をもたらした。自動車、航空機、電機、化学(爆薬、染料など)の重化学工業が急速に発展し、大戦前の主要産業であった石炭、繊維、造船はかつての地位を失っていった。特に、英国製綿製品が大勢を占めていた中国・インド市場では、自国資本による綿業が発達するとともに、日本製綿製品の進出もあって、英国の紡績業は失地回復が急がれる状況にあった。

豊田自動織機製作所製の「G型自動織機」は海外でも高く評価され、インドの織布工場に205台が納入されていた。これに対して、英国の紡織機メーカーであるプラット社は、自社の重要な市場を保全するため、豊田自動織機製作所の特許権を買い取ることとし、役員のチャダートンを日本に派遣した。

チャダートンは、1929(昭和4)年6月7日に三井物産ロンドン支店のダルマンとともに、三井物産名古屋支店を訪れ、豊田佐吉、喜一郎と面談を行った。1その後、チャダートンは三井物産を介して、自動織機の特許権譲渡に関する交渉を進め、同年9月には契約調印のために喜一郎が渡航することになった。

喜一郎は、渡英の際、米国にも自動織機の特許を売り込むことを計画し、米国経由で英国に向かった。しかし、米国では特許の売り込みは随行者に任せ、自身は自動車工業や自動車製造用の工作機械の調査に専念した。そして、同年12月21日に英国のプラット社へ出向き、自動織機の特許権譲渡契約を締結した。

プラット社との特許譲渡契約の対象は、喜一郎が発明した杼換式自動織機に関する特許である。総額10万ポンドを4回の分割払いとし、毎年2万5,000ポンド(約25万円)ずつ支払う契約であったが、最終的に1934年7月に未払い分の6万1,500ポンドを4万5,000ポンド(総額8万3,500ポンド)に減額して決済された。

かねてから自動車製造の夢を抱いていた喜一郎は、2度目の渡航によって欧米の産業構造の変化を実感し、わが国における自動車産業の必要性を改めて認識した。喜一郎に随行した原口晃(豊田自動織機製作所常務取締役)や古市勉(三井物産社員)によると、喜一郎はフォード社の自動車製造工場の視察や工作機械の調査に没頭していたのであった。

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