既存設備機械の修復整備

1950(昭和25)年、米国視察から帰った豊田英二常務と齋藤尚一常務は、業績の好転を背景に、設備の合理化・近代化に取り組んだ。

豊田喜一郎社長は、既述のとおり、1946年4月~1947年3月の間、自ら「臨時復興局」の局長に就任し、戦時中に酷使された工作機械の修復を推進した。しかし、これは緊急的な最小限度の修復にすぎなかった。計画的な修復整備は1948年から始まったが、工程内で使用中の工作機械を修復整備するには、代替補充機が必要であるため、その実施には限界があった。

1951年1月には国有ならびに一部民間の賠償指定機械の一時借用が許可され、こうした状況に変化が訪れた。賠償指定機械を利用することで、汎用工作機械については、計画に沿った修復整備が期待できるようになったのである。

修復整備を担当した工機工場の調査1によると、トヨタ自工には、1950年末時点で工作機械が約2,700台、プレス機や鍛造機などの産業機械が約2,000台、合計約4,700台の設備機械が存在した。それらを使用年数で区分すると、10年以内が47%、10年以上20年以下が53%であった。また、工作機械の製造国別では、国産機が69%、輸入機が31%となっていた。

設備機械の精度・機能の程度については、次のように分けられた。

  1. 1.精度・機能が良好なもの、もしくはおおむね良好なものが1,556台(33%)
  2. 2.精度・機能がやや不良なものが2,262台(48%)
  3. 3.精度・機能は著しく不良なもの、もしくは使用不能に近いものが888台(19%)

3については早急な修復整備を要し、2については逐次計画的に実施する必要があった。

この調査に基づき、修復整備を進めた結果、1952年なかごろには著しい不良を抱えた機械2の修復整備が完了し、ベルト掛け駆動の旧式な旋盤、フライス盤などを廃却できる状態にまで改善された。また、精度・機能の復旧に加えて、性能の近代化(改造)を積極的に取り入れ、平ベルト伝動のVベルト伝動化や歯車伝動化、必要機能の自動化ないし半自動化、遊休パワーユニットを利用した自動専用機化などを実施した。

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