第9節 量産量販に向けての準備
第1項 販売体制の拡充
東京トヨペット株式会社の設立
1949(昭和24)年10月、GHQ(連合国軍総司令部)による乗用車の生産制限が解除された。翌11月からは自動車販売の割当配給制も廃止され、自由販売制になった。トヨタ自工では、早速トラック・シャシーを利用したSD型乗用車シャシーの製造を開始し、1955年には本格的な乗用車としてトヨペット・クラウン、トヨペット・マスターを発売した。
1950~55年のトヨタ車の販売台数を見ると、表1-45のとおりで、乗用車に関しては、548台から7,055台へと約13倍もの急増を示した。販売台数に占める乗用車の比率も、1950年の6%から年々増加し、1955年には30%を超えた。
表1-45 トヨタ車の販売実績(1950~55年)
|  | トヨタ乗用車 | トヨタ車合計 | 総登録台数 | a/b | |||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 台数(a) | 増加率 | 台数(b) | 増加率 | 台数 | 増加率 | ||
| 1950年 | 548 |  | 9,228 |  | 26,813 |  | 5.9% | 
| 1951年 | 1,718 | 313.5% | 10,126 | 9.7% | 28,200 | 5.2% | 17.0% | 
| 1952年 | 2,102 | 22.4% | 14,364 | 41.9% | 37,235 | 32.0% | 14.6% | 
| 1953年 | 3,530 | 67.9% | 14,883 | 3.6% | 48,860 | 31.2% | 23.7% | 
| 1954年 | 4,217 | 19.5% | 20,768 | 39.5% | 62,370 | 27.7% | 20.3% | 
| 1955年 | 7,055 | 67.3% | 22,240 | 7.1% | 64,528 | 3.5% | 31.7% | 
- (出典)
- 『トヨタ自販30年史 世界への歩み』
このような乗用車市場の急拡大を背景に、1953年3月14日には東京トヨペット株式会社がトヨタ自販の直営店として設立された。同社は、東京トヨタ株式会社の乗用車販売権を肩代わりし、同年4月から営業を開始した。
当時、全国の乗用車需要の約3割を占めた東京市場では、1946年10月に東京トヨタが設立されていた。同社は、古河財閥系を中心とする銀行、生命保険、鉄道、タイヤ製造企業などの出身者で経営陣が構成され、自動車販売に経験を持つ者がいなかった。したがって、当初から苦戦が予想される体制といわざるを得ず、実際、「東京に於けるトヨタ乗用車の占拠率はきわめて低く、この劣勢はおおうべくもなかった」という状況であった。1販売体制のテコ入れのため、トヨタ自販の出資により東京トヨペットを設立したのは、ある意味で当然の成り行きといえた。2
1953年当時、わが国の自動車市場は、乗用車の普及期を迎えようとしていた。それに対応して、本格的な乗用車RS型クラウンの開発を進める一方、大市場の東京で販売体制が不十分であったところから、設立に手間がかからない直営店として東京トヨペットを設立したのである。
東京トヨペットの設立に伴い、東京トヨタの乗用車販売権は東京トヨペットへ移り、東京トヨタは一時期、乗用車を販売できなくなった。そのため、東京トヨタの経営基盤はますます弱体化し、1967年にはトヨタ自販の資本が入って直営店化された。
東京トヨペットの設立に対して、全国のトヨタ販売店は強く反対した。新たな販売店の設置は、既存の販売店にとって既得権を脅かすものである。まして、一部とはいえ販売権を取り上げられるとなれば、死活問題に直結するので、簡単に同意できることではなかった。トヨタ自販では、東京トヨペットの設立は東京市場の特殊性を考慮した例外措置であり、全国的に展開する意図がないことを説明し、さらに全国のトヨタ販売店に東京トヨペットへ資本参加(資本金の20%)してもらうことなどにより、販売店側の理解を何とか取りつけることができた。
設立時の東京トヨペットの資本金は3,000万円で、会長にトヨタ自販社長の神谷正太郎、社長に同常務取締役の永井英が就任した。本社は、虎ノ門(現在の虎ノ門営業所)に置かれ、本社屋となった木造2階建ての建物は、豊田喜一郎がトヨタ自工の社長辞任後、東京での研究拠点として利用していた場所であったと伝えられている。








