第6節 戦後の事業整理と労働争議

第4項 企業再建整備に伴う新会社3社の分離独立

1946(昭和21)年10月19日、「戦時補償特別措置法」と「企業再建整備法」が公布された。前者は、戦時中に政府が支払いを約束した戦時補償の打ち切り(支払額に対して100%の戦時補償特別税を課す)を決めた法律で、後者は、それによって財務内容が悪化する企業の救済措置を定めた法律である。救済措置の柱は、旧会社から営業あるいは資産を引き継いだ第二会社を設立し、旧会社は解散手続に専念するという方法であった。

トヨタ自工も他の企業と同様、戦時補償が打ち切られたため、再建整備計画の検討を進めなければならなかった。しかし、既述のように、制限会社、過度経済力集中会社、賠償保全工場などに指定され、種々の制約が課されていたことから、本格的な再建整備計画の立案は、1949年1月21日の過度経済力集中会社の指定解除後にずれ込んだ。

再建整備計画の策定に際しては、現状維持を基本とし、できるだけ早期に経営の自立化が達成されるよう、「企業再建整備法」が認める最小限の範囲内での再編を目指すことになった。その結果、トヨタ自工本体を存続会社として残し、名古屋市に所在する中川工場(旧・愛知工場)の一部、および刈谷町の電装工場と紡織工場の計3工場の事業を第二会社として分離独立させる案が立てられた。

当時の各工場の状況をみると、名古屋市中川区の中川工場は、その一部で琺瑯(ホウロウ)鉄器を製造していた。刈谷町の電装工場は、元は刈谷北工場と呼ばれた工場で、1948年10月に刈谷南工場から電装品製造部門が移転すると同時に、ラジエーター製造部門が挙母工場から移転し、両部門を合わせて電装工場に改称された。また、紡織工場は刈谷南工場に所在し、1946年10月に紡織部の工場となっていた。

このような工場の現状から、電装工場を分離独立して日本電装株式会社を、紡織工場が所在する刈谷南工場を分離独立して民成紡績株式会社を、中川工場の琺瑯鉄器製造部門を分離独立して愛知琺瑯株式会社を第二会社として設立することになった。これら第二会社の設立を含む整備計画認可申請書は、1949年4月30日に大蔵・商工両大臣あてに提出され、同年11月15日付で認可を受けた。

この再建整備計画に基づき、1949年12月16日にトヨタ自工の現物出資により、資本金1,500万円の日本電装株式会社が設立された。同社は、のちに株式会社デンソーと改称し、トヨタグループ企業の中核を担っている。

同じ1949年12月16日には愛知琺瑯株式会社が設立された。トヨタ自工が現物出資し、資本金は400万円であった。同社は、1951年9月に中川工場から移転したのち、業績不振により、同年11月27日付で解散した。トヨタ自工の資本は清算されたが、同社幹部が事業を引き継いで株式会社日新琺瑯製作所を設立し、自動車プレス部品の製造などを兼営した。

紡織部が分離独立した民成紡績株式会社は、1950年5月15日に設立された。その後、同社は、1967年8月に豊田紡織株式会社と改称し、自動車部品製造部門の比率を拡大させていった。2004(平成16)年10月にはトヨタ紡織株式会社と社名を変更した。

このページの先頭へ