第6節 戦後の事業整理と労働争議

第1項 新規事業の模索

工場生産の再開

1945(昭和20)年8月14日、トヨタ自工の挙母工場は空襲を受け、工場の約4分の1が破壊された。そして翌15日、爆撃による被害の復旧工事を行っているさなかに、終戦の玉音放送があった。

続く8月16日には、赤井久義副社長が集まった幹部を前に、「トラックはこれから日本を復興する際にも重要な道具である。トヨタはそれをつくって供給する責任がある。だからそのつもりで再出発しよう」との所信を力強く表明した。これに応えて、幹部は再出発を決意し、8月17日から工場生産が再開された。その際、資材を節約した戦時規格を廃止し、標準規格のKC型トラックを生産することとした。

勤労動員などで9,500人余りに増えていた従業員は、動員された人たちが終戦により去ったことで、7,400人程度になった。1その後も自発的に退社する者が多く、10月末には3,700人にまで減少した。

豊田喜一郎社長は、自動車の生産が禁止される場合を想定し、従業員の生活を守るために新規事業を構想していた。その考え方の基本となったのは衣食住である。日常生活に欠かせない衣食住にかかわる事業まで禁止することはないだろうとの見通しから、それらに関連する種々の調査・研究事項が指示された。

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