第5節 生産体制と販売体制の強化

第5項 ヨーロッパと中近東の販売網強化

1960年代後半(昭和40年代)に入ると、トヨタは、商品力の充実を基盤に車両仕様の現地適合化を図り、競争条件の厳しい自動車生産国へも進出していった。

イギリスへは1965(昭和40)年に進出するが、1970年までは1,000台前後にとどまっていた。この間、現地ディストリビューターのトヨタGB社1は、販売体制を整備して力を蓄え、1971年の自動車購入税引き下げなどによりイギリスの自動車需要が急増すると、販売台数を大きく伸ばし、1972年には2万4,000台となった。

フランスでも1967年の参入以来、低迷が続いていた。1970年にディストリビューター契約を打ち切り、翌年(1971年)にスイスのトヨタAG社の協力を得てシダット社を設立し、販路を拡大していった。

世界有数の自動車市場である西ドイツは、最も厳しい競争市場の一つであった。1971年1月にようやく、ディストリビューターのドイチェ・トヨタ・フェアトリープ社(ドイツ・トヨタ)2の業務が開始され、西ドイツへの進出を果たした。

ヨーロッパの自動車生産国へ本格的に進出したことによって、ヨーロッパ向け輸出は1970年代以降、次第に増加していった。また、ポルトガルについては、既述のとおり、1968年にサルバドール・カエターノ社へノックダウン輸出を行っていた。1970年、同社はポルトガル政府の許可を得て組立工場の建設を始め、1972年には、トヨタの資本参加を得て月産1,250台の工場が完成し、組立能力は大幅に増加した。また、全国的な拠点増設など販売網も拡充強化された。

1973年11月以降の石油危機は、イギリスのBLMC(British Leyland Motor Corporation)の国有化、西ドイツのフォルクスワーゲン社の大欠損など、ヨーロッパの自動車業界に大きな影響を与えた。こうした厳しい環境のなかで、設立後歴史が浅く、体力も十分に備わっていなかったトヨタの販売網は、いっそう苦しい局面に立たされた。

ヨーロッパ市場でトヨタ車の販売が最も大きく落ち込んだのは、西ドイツであった。1974年の販売台数は、前年比32%減の7,000台である。ディストリビューターのドイチェ・トヨタ・フェアトリープ社では、在庫が増える一方であり、主力取引銀行であるヘルシュタット銀行の倒産が重なり、同社は経営危機に陥った。トヨタは、1974年11月に同社を買収して直営化し、営業を継続して会社再建に努めた。1974年に494店であったディーラー数を、1975年に536店、1976年に626店、さらに1977年には727店と増やしていった。この間、同社の資本金を増資して、1976年8月に社名をトヨタ・ドイチェラント(Toyota Deutschland GmbH)と変更した。さらに、翌1977年にはマネジメント機能を強化するため、分散していた本社、部品倉庫、サービス工場の一本化を図るべく、新本社建設計画をスタートさせた。この新本社の完成式は、1979年5月に行われた。

石油危機後の1975年以降、ヨーロッパ諸国の自動車販売状況は、日本や米国よりも早いぺースで回復していった。西ドイツ、オランダ、ベルギーなどでは1975年には1973年当時のレベルに戻り、フランスでも1975年の秋以降から急速に回復していった。こうした市場回復のなかで、トヨタは積極策に転じ、ディーラー網の強化、積極的な商品導入、宣伝広告活動などを強力に推進した。イギリスでは販売効率の向上に主眼を置き、ディーラーの新旧の入れ替えを進めた。フランスでは、販売力強化とアフターサービス体制強化に努め、ディーラー数は1974年の180店を1977年には231店へと拡大した。こうした一連の積極策によって、ヨーロッパ各国におけるトヨタ車の販売台数は、総市場の回復を上回る勢いで順調に伸びていった。

一方、石油危機の震源地となった中近東地域では、豊富な石油収入を背景に自動車需要が急増した。中近東11カ国の自動車輸入台数は、1973年の19万台が1976年には67万台へと伸び、一気に大型市場に成長した。トヨタの中近東向け輸出は、1973年は3万台であり、総輸出に占める割合はわずか4.2%にすぎなかった。それが2年連続で倍増して、1975年には10万2,800台となり、総輸出に占める割合も12%に達した。

しかも、日本車全体の輸出の伸びが1976年、1977年と徐々に鈍化したにもかかわらず、トヨタ車は、ハイラックス、ランドクルーザーの圧倒的な強さに、コロナ、クレシーダ(マークⅡの輸出名)の好調さが加わり、1977年には20万9,300台と引き続き高い伸びを維持した。

トヨタはディストリビューターを説得して、アフターサービス体制を完備するように努めた。1976年8月と翌年3月、サウジアラビアに技術指導員を派遣し、2年間にわたって現地整備技術員の育成に努めたのもその一例である。1977年にはアラブ首長国連邦に新車整備工場を、オマーンに新車倉庫とサービス工場からなる総合自動車センターを開設し、1978年にはサウジアラビアに総合サービスセンターを建設するなど、施設面の整備も着々と推進した。

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