第4節 工場の新増設

第1項 月産5万台へ―元町工場の拡充と上郷工場の建設

既述のとおり、1959(昭和34)年12月に月産1万台を達成した後、元町工場では第2期工事のボデー工場の拡張、プレス工場の新設が行われた。さらに続いて、アルミ鋳物工場、第1機械工場、工機工場、第2組立工場、めっき工場などが順次建設され、1962年秋までに稼働を開始した。このような設備増強に伴い、1961年10月には月産2万台を達成し、1963年10月には待望の月産3万台を実現した。そして、元町工場では、同年末に第2機械工場が完成し、続いてプレス工場の増設工事も完了した。また、高精度を必要とするピストンピンなどの量産化を図るため、1964年1月に小物機械工場が設置された。

既述の乗用車の輸入自由化(1965年実施)や、自動車の資本自由化(1971年実施)に対応した国際競争力強化のため、量産体制確立に向けて、さらに月産5万台を目指した工場の拡充が続く。この時期より、トヨタの生産工場のあり方について大きな変化が現れた。品質、生産性の向上とコストの低減を図るため、機能的、効率的で弾力性に富む、経済的な専門工場の考え方である。1各工場を車両組立、エンジン、駆動部品、足まわり関係部品などのように、機能的に専門化し、さらには鋳造部品、鍛造部品などの粗形材用に特化させて、車種や仕様の多様化に効率良く対応しようとするものである。

本社鍛造工場では、1962年ごろから鍛造プレス、アプセッターの増強に続いて、自動化を進める。荒地成形からバリ抜き工程まで鍛造プレスによりコネクティングロッドの自動鍛造を連続的に行うようになった。アプセッターによる据え込み鍛造2も自動化が進み、ドライブピニオンなど軸物の加熱から据え込み鍛造までが自動化された。一方、こうした自動化にもかかわらず、本社鍛造工場での生産能力拡充が限界に近づきつつあった。

そのため、新たに愛知製鋼知多工場の近接地に新鍛造工場(知多鍛造工場)を建設し、愛知製鋼に新工場の操業を委託することを1963年9月に決定した。同年12月に着工し、翌1964年7月に操業を開始した。現在は愛知製鋼の鍛造事業として(設備、建屋を愛知製鋼に譲渡)、トヨタの鍛造部品を生産する最大の拠点となっている。

月産5万台を目標に、本社工場はトラック専門、元町工場は乗用車専門という基本線が決まり、この基本線に沿って生産を拡大していくため、新たにエンジン専門工場として上郷工場を建設することとした。1964年6月、堤穎雄取締役を委員長とする上郷工場建設委員会は、次のような建設方針を決定した。

  1. 1.設備計画方針:設備を充実し、人員半減を図る。
  2. 2.生産品目:エンジンおよびトランスミッション。
  3. 3.生産規模:当初はM型エンジンを月産で1万台とし、将来はトランスミッションを含めて10万台まで生産可能とする。

同年10月に建設工事に着手し、翌1965年9月に第1号エンジンがラインオフし、11月には完成式典が挙行された。3鋳造から機械加工、組付に至るまで一貫したエンジン生産を行う、日本で最初のエンジン専門工場であった。

鋳物工程には溶解設備に鋳鉄・アルミとも低周波誘導炉4を導入し、造型工程では中子から主型の製造まで全面的にシェル・モールド法を導入した。さらに、コンベヤー・システムの充実、一連の砂処理設備導入など、画期的な設備を備える新鋭工場であった。

機械加工工程では、広い範囲にわたってトランスファー・マシンを導入し、さらに、各トランスファー・マシン間を自動コンベヤーにより連結した。また、汎用機や単体専用機には自動搬入搬出装置を取り付け、さらに各機械間を自動コンベヤーで結び、他に例を見ない「機械加工の全工程連続化」を実現した。

第1部で既に述べたとおりトヨタの量産体制が整うにつれ、部品メーカー以外の仕入先の間にも、協豊会と同様の組織をつくろうとする気運が高まった。1962年4月には、型、治具、ゲージの関連各社が精豊会を結成、11月には、建築、工場設備、電気設備の関連各社によって栄豊会が結成された。そして、1983年に精豊会と栄豊会が統合し、新生栄豊会として発足した。

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