第3節 北米で現地生産をスタート

第2項 GM社との合弁

NUMMIの設立

1981(昭和56)年7月にフォード・モーター社との合弁交渉が決裂して間もなく、今度はゼネラル・モーターズ(GM)社から提携の打診があった。これに対してトヨタ自販の加藤誠之会長は、同年12月にデトロイトにロジャー・スミス会長を訪ね、トヨタ自工の豊田英二社長との会談を提案した。GM社側の動きは速く、1982年1月には担当役員をトヨタ自工本社に派遣してきた。

さらに、同年3月にはニューヨークで豊田社長とスミス会長のトップ会談が行われた。スミス会長はその場で、①折半出資で合弁会社を設立し、トヨタが経営する、②西海岸のGM社の工場を活用し、1984年秋から新型カローラをベースにしたGM車を年20万~40万台生産する、というきわめて具体的な案を提示した。これ以降、両社の実務者レベルによる合弁交渉が本格的に始まった。

当時、小型車の自社開発でつまずいていたGM社は、提携先のいすゞ自動車と鈴木自動車工業(現・スズキ)から小型車の供給を受けることにしていた。とはいえ、量的には不十分であり、トヨタとの共同生産により量を確保するとともに小型車の生産ノウハウを吸収するというねらいがあった。

日米間の経済摩擦は、1981年度には日本製乗用車の対米輸出自主規制という事態にまで及んでいたが、日本車への批判は鎮静化していなかった。それどころか、米国議会ではローカルコンテント(現地調達率)法制定の動きも高まっていた。そうした情勢下でのGM社との合弁生産は、日米間の新しい産業協力のモデルとして米国の雇用や部品産業の活性化にも貢献し、両国関係に好影響を与えるものと期待された。

トヨタにとっても、世界最大の自動車市場で従来にない規模で現地生産を行う意義は大きかった。また、北米での生産拡大が不可避となるなか、合弁による比較的少ない投資で北米へ進出し、現地生産を学べるという利点もある。GM社との合弁生産は、トヨタの課題や日米間の通商問題に対処するうえで、最善の策といえた。

しかし、社内には慎重論や懸念の声もあった。生産部門では生産ノウハウを合弁工場で公開することへの不安、北米販売部門では主力モデルを競争相手に供給することへの懸念などである。加えて、全米自動車労働組合(UAW)との協調という大きな問題もあった。それでも両社の合弁生産に関する交渉は進展し、1983年2月にはGM社が閉鎖したばかりのカリフォルニア州フリモント工場を活用するなどの基本合意が成立した。このとき交わされた覚書の主な内容1は、①新会社への出資比率は50対50とする、②1985モデルイヤーのできるだけ早い時期に生産を開始し、年産約20万台を目標とする、③合弁の期間は生産開始後12年以内とする、などであった。

1983年12月には米連邦取引委員会(FTC)の仮認可が下り、懸案の米独占禁止法をクリアした。そして、1984年2月にトヨタとGM社の折半出資により、資本金2億ドルのニュー・ユナイテッド・モーター・マニュファクチャリング(NUMMI)を設立し、社長にはトヨタの豊田達郎常務が就任した。

1984年4月、トヨタとGM社は、NUMMIの設立に関して、名古屋市で記者会見2を行った。その席上、豊田英二会長は、「競争と協調の精神こそが世界経済の発展を支える基本」であると自らの信念を語り、合弁プロジェクトを「日米産業協力のモデル」として成功に導くとの決意を表明した。

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