第3節 基礎技術の研究・開発

第6項 ゴム部品の研究・開発

ゴム部品の研究に着手

豊田喜一郎は、有機化学にも関心を抱いていた。既述のように1932(昭和7)年12月には事業多角化のため、庄内川レーヨンを設立したが、同社も有機化学会社に属するといえよう。また、レーヨンの製造に関しては、同年12月から1937年10月の間に工業所有権を出願し、特許権4件、実用新案権5件を得ており、自動車製造と並行して人造繊維製造の研究も行っていたのである。

1934年にA1型試作乗用車の設計を開始した際、ボデー・スタイルとシャシーはクライスラー系のデソート車を参考にし、ブレーキについてもデソート車と同様に4輪油圧ブレーキを採用した。1当時、シボレー、フォードの乗用車・トラックとも機械式ブレーキであり、油圧ブレーキは一般的ではなかった。このため、油圧ブレーキ部品やブレーキオイル(ブレーキ液)は輸入品を用いるとともに、それらについての研究が必要になった。

喜一郎は、1934年11月に化学関係の技術者である木村富士信2を採用し、「自動車に関するいっさいの化学的なことをやるように」、「自分でつくってみるように」と指示した。3木村は、製鋼部研究室化学試験室で自動車部品の材質調査・研究に携わり、金属材料とあわせて有機材料の分析も行った。このころ、自動車に使われていた有機材料としては、タイヤ、チューブ、ファンベルト、エンジン架装や懸架装置のゴム製クッション材(防振ゴム)などがあり、ブレーキオイルもその一つであった。4

油圧ブレーキの研究を開始するにあたり、まず化学試験室程度の設備で間に合うテーマとして、ブレーキオイルの調査研究に着手した。1935年ごろは油圧ブレーキが輸入車に装着され、普及し始めた時期であったため、国産のブレーキオイルに見るべきものはなかった。

当時のブレーキオイルは、植物油を主成分とし、適切な粘度に調整する必要から、アルコール系の溶剤が混合されていた。化学試験室での調査研究の結果、植物油のヒマシ油にダイアセトンアルコールを加えて、粘度を調節するのが最適であることがわかり、小規模な自家生産を開始した。このブレーキオイルの製造は、刈谷工場ゴム課がトヨタ自工から分離独立する1943年ごろまで続けられた。5

さらに、油圧ブレーキの研究として、米国ワーグナー社製油圧ブレーキ・シリンダーのゴム製ピストンカップ、およびカバー(ブーツ)類の化学分析を行った。また、1935年には油圧ブレーキ用ゴム部品の試作のため、製鋼部研究室の東側に隣接した約80坪(約260m2)のブレーキ試験工場(試作工場)に、試験ロール機(8インチ×20インチ)、プレス機(20インチ×20インチ)などを据え付け、試験的なゴム部品の製作を開始した。

そのほか、ブレーキ・ライニングを開発した。当時のブレーキ・ライニングは、石綿(アスベスト)を結合剤で固めて作られ、結合剤としては、アスファルトやピッチ、ゴム、フェノール樹脂などが用いられていた。化学試験室ではゴム部品研究の延長として、石綿の繊維や細粉をゴムの結合剤で練物にして硬化させたブレーキ・ライニングを開発・実用化した。このブレーキ・ライニングは、刈谷工場ゴム課が分離して、国華工業名古屋工場になってからも製造され、トヨタ自工へ納入された。

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