第3節 新型車の開発・販売―フルライン体制の推進

第2項 スポーツカーの開発

1963(昭和38)年5月の第1回日本グランプリ以来、自動車レースやラリーなどモータースポーツの人気が高まり、本格的な高性能車を望む声が聞かれるようになった。こうしたなかでトヨタ2000GT(MF10型)は、これまで蓄積してきた技術を発揮し、トヨタとして最高のものをつくり世に問おうとしたものであった。

市街地や高速道路での一般走行時には快適な乗り心地を約束し、若干の部品交換によってそのままレースでも活躍できる実用的な高性能車を目指した。エンジンは、クラウン用として開発が進められていたM型エンジンを改良し、DOHC方式を採用した3M型エンジンを使用した。2000GTが少量生産であり、また入念な仕上げを要することから量産ラインでは生産できないため、当時二輪車レースで活躍していたヤマハ発動機と提携し、試作と生産を委託した。

1965年8月に試作第1号車が完成し、その年の秋の第12回東京モーターショーに出品し、大きな反響を呼んだ。以後、幾たびかレースに出場し高性能ぶりを発揮し、1966年10月には「トヨタ2000GTスピード・トライアル」を敢行し、高速耐久スピード記録に挑戦した。

この高速耐久トライアルは、茨城県筑波郡谷田部町1の自動車高速試験場において、国際自動車連盟(FIA)と日本自動車連盟(JAF)の厳しいルールに従って行われた。折からの台風28号による悪天候のなか、連続高速走行78時間、全走破距離1万6,000㎞を、平均時速206.1㎞で走り続け、3つの世界記録と13の国際記録を樹立した。トヨタの技術を世に問い、その先進性を立証した記念すべき出来事であった。

モータースポーツの人気が高まるとともに、小型スポーツカーに対する要望も強くなった。そこで廉価で使いやすく、しかも徹底的に軽量化を図ったトヨタスポーツ800(UP15型)を1965年3月に発表した。主にパブリカの部品を共用し、ボデーの生産は関東自動車工業に委託した。シンプルなメカニック、空気抵抗を極力減少させたスタイル、アルミ軽合金の使用による車両重量の軽減(車両重量580kg)、1L当たり31㎞も走行する好燃費など、優れた特色をもったトヨタスポーツ800は「ヨタハチ」の愛称で幅広い人気を得た。

また、コロナRT40型系については、高性能なエンジンとして開発された4R型(1,587cc、OHV、90馬力)を搭載したコロナ1600S(RT40S型)が1965年4月に追加された。さらにスポーティなスタイルである、日本初のハードトップ車トヨペット・コロナ・ハードトップ(RT50型、RT51型)が同年6月に登場した。そして、その1600S(RT51型)をベースに、9R型エンジン(1,587cc、DOHC、110馬力)を搭載したトヨタ1600GT(RT55型)が1967年8月に発売された。

トヨタ1600GTは、自動車レース出場も考慮して、レースを担当する第7技術部が市販車として開発した。9R型エンジンの性能に対応した足まわりの変更などにより加速性能、最高速度に優れるとともに、市販車として5段ミッションをオプション仕様とするRT55-M型や、3種類の最終減速比を選べる4段ミッション車などがそろえられた。

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