第5節 日米通商問題の新展開

第1項 輸入拡大を柱とする「国際協調プログラム」

1981(昭和56)年度に始まった日本製乗用車の対米輸出自主規制により、米国のビッグスリーの業績は1980年代半ばから立ち直りをみせた。しかし、日米間の貿易不均衡は依然として両国間の通商問題としてくすぶっており、新たに日本側の輸入拡大や現地調達の推進などの課題が浮上してきた。そこで、通商産業省(現・経済産業省)は最大の対米輸出産業である自動車メーカーに対して輸入の拡大を要請した。

これを受けてトヨタは、1985年5月に小野博康副社長を委員長とする輸入拡大委員会を設置し、グループ11社を加えて検討を進めた。同時に、社内から提案を募るなどして対策をとりまとめ、同年9月に1985年と1986年の輸入計画を通産省に提出した。その内容は、カーペット原反やヘッドランプ、タイヤといった自動車資材・部品のほか、ヘリコプター、工作機械、さらにトヨタ生活協同組合の輸入品フェアで販売する日用品など多岐にわたった。これらの輸入額は、1985年に前年を130億円上回る600億円、1986年には700億円を予定し、さらに計画を上回るペースで輸入の拡大に努めた。

1986年8月には日本メーカーによる部品調達の拡大を目的に、日米政府間の新たな協議が始まった。米国側から対日輸出が期待できる産業分野を選び、集中的に討議する市場重視型分野別(MOSS)協議が行われ、そのテーマの一つに自動車部品が取り上げられた。1年間に及ぶ政府間協議は1987年8月に最終報告をまとめて決着し、日本側は同年度から5年にわたり半期ごとに米国製部品の輸入と現地調達額を米商務省に伝えることとなった。目標額などは設定しない緩やかな合意であったが、日本メーカーにとっては、進出先の工場での調達や日本への輸入の拡大が避けられない状況になった。

こうした情勢のなか、1989(平成2)年10月にトヨタは「国際協調プログラム」を発表した。部品に限らず広範囲な輸入の拡大を進め、1992年の全世界からの輸入額を1988年比2.5倍の3,000億円に増加させるという目標を掲げた対外公約であった。その骨子は、①トヨタ・モーター・マニュファクチャリング・USA(TMM、現・TMMK)製の右ハンドル新型車を中心とした完成車の輸入、②TMM製エンジンの年間10万基輸入を含む部品、資材、設備の輸入倍増計画、③米パイパー社製飛行機など新規輸入の拡大、の3点であった。また、国際企業としての社会的責任を果たしていくため、1989年末に豊田章一郎社長を委員長とする「社会貢献活動委員会」を発足させる計画もプログラムに盛り込んだ。

1992年の輸入額は3,015億円となり、国際協調プログラムで掲げた目標をクリアすることになるが、1991年12月には計画を拡大して1994年度の輸入目標額を4,000億円に引き上げた「新国際協調プログラム」を発表した。このなかには小型トラックを共同生産していたドイツのフォルクスワーゲン(VW)社との新たな合意として、1992年からVW車・アウディ車を輸入販売する計画も含まれた。

この新国際協調プログラムでは、海外サプライヤーとの長期的かつ緊密な取引関係の構築を目指した点にも特徴があった。その具体策として、設計段階から開発に参画してもらうデザイン・インや品質・生産性の向上に対する個別支援活動などに力を入れることとした。また、1990年には名古屋市と豊田市で「北米輸入サプライヤーズミーティング」を初めて開催したが、これを継続的に実施するとともに、日本のみならず米国でも開催する計画を掲げた。

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