第5節 生産体制と販売体制の強化

第6項 現地組立体制の強化

1970年代(昭和40年代後半)には、アイルランドのほか、インドネシア、パキスタンで組立が始まり、トヨタ車のノックダウン輸出仕向国は合計15カ国となった。その間、ノックダウン導入車種を増加し、現地組立会社の能力も拡充し、ノックダウン輸出は着実に増加していった。しかし、1970年代以降、各国での自動車産業政策が進展し、従来のノックダウン輸出の内容に変化が生じ始めた。自国産業の育成を目的として、多くの国が国産化規制を実施し、あるいは強化し始めたのである。

南アフリカ共和国では、1969(昭和44)年に従来よりもいっそう厳しい乗用車国産化計画が発表された。重量比による国産化率を毎年上昇させ、最終年度の1976年には、66%の国産化率を達成するよう義務づけたのである。南アの組立会社であるモーター・アッセンブリーズ社1は、1971年に新組立工場を建設し、翌年にはエンジンの機械加工設備ラインを設けて、1968年から外注委託していたエンジンの自社製造に着手した。また、1969年にコロナの上級市場をねらってマークⅡを導入した。

オーストラリアでは、既に述べたとおり、60%の国産化を目標に現地組立に努力していた。1971年にトヨタは、オーストラリアン・モーター・インダストリーズ社の株式買増しを行い、また、トラックの輸入・販売を担当するティース・トヨタ社に対しても資本参加した。

1971年12月、オーストラリア政府は、新乗用車国産化計画案を発表した。オーストラリア国内で論議が重ねられ、同政府は、1979年末までに85%以上の国産化を推進するという自動車政策を、1975年に決定した。85%国産化となると、事実上、現地一貫生産に近く、採算面や技術面などから見て非常な困難を伴うが、輸出に占める同国市場のウェートの高さや、国産化計画についての同国政府との協議を踏まえて、トヨタは1976年6月、同計画への参加を正式に決定した。

乗用車の国産化率85%を達成するには、エンジンやトランスミッションなどの主要部品を現地で生産する必要があった。1977年2月、トヨタはオルバリー・トレーディング社(トヨタ出資90%)をトヨタ・マニュファクチャリング・オーストラリア(TMA)社2に社名変更し、同年5月にエンジン工場の建設に着手した。翌年10月にエンジン工場が完成し、カローラ用4K型エンジンの組付を開始した。1979年7月にはアルミ鋳造と機械加工工程を完成させて、エンジンとトランスミッションの一貫生産工場となった。

1972年にトヨタが50%弱の筆頭株主となったオーストラリアン・モーター・インダストリーズ(AMI)社にも、従来サブアッシーの状態で出荷していたボデーパネル部品を細分解して支給するようにしたほか、GMホールデン社にプレスパネルの生産委託を行い、国産化率を引き上げた。さらに、コロナ用のエンジンは、GMホールデン社製の1,900ccエンジンを購入して搭載することを決定した。こうした努力によって、1980年初めには、トヨタはカローラとコロナの国産化率85%を達成した。

アジア地域では、フィリピンが乗用車の国産化に向けて大きく踏み出した。トヨタは、提携先のデルタ・モーター社3から積極的な働きかけを受け、協力の必要性、採算性、危険負担、東南アジアにおけるウェートなどを検討、協議した結果、国産化に取り組む意向を固めた。同国市場から撤退すれば、東南アジア地域全体の輸出に影響を及ぼしかねないと考えたのである。トヨタは資金調達、技術移転の両面で協力し、1973年にデルタ・モーター社が新工場を稼働させ、コロナ用の12R型エンジン・ブロックなどの現地生産を開始した。

インドネシアでは、1971年に合弁会社トヨタ・アストラ・モーター社4を設立した。実現までには現地政府との交渉など、紆余曲折を経ての国産化であった。この間、組立会社であるガヤ・モーター社では組立工場の大幅改造が行われ、コロナ、ランドクルーザー、大型トラック、カローラなどが次々に組立車として導入され、1973年には1万台を超えた。なお、同年5月にはジャカルタにトヨタ・アストラ・モーター社の新社屋が完成し、インドネシアにおける輸入、販売の体制も整った。

この時期に、トヨタはアジア各国の国産化政策へ対応していくために、現地のニーズに合致し技術移転も進めやすいように設計した発展途上国向けの汎用車として、BUV(ベーシック・ユーティリティ・ビークル)を開発した。

この開発に際して、現地の市場ニーズを確認して進めるため、フィリピンのデルタ・モーター社およびインドネシアのトヨタ・アストラ・モーター社の両社が、設計段階から参画した。1975年1月に第1次試作車が完成し、現地で性能、耐久性、仕様などについてテストが繰り返された。その結果を踏まえて両社の技術者とトヨタの技術者が共同で最終仕様を決めて、さらにデルタ・モーター社で組立テストを実施するなど万全を期した。

BUVは1976年12月、フィリピンでタマラオ(KF10型)として発売された。インドネシアでは同月、キャビンやデッキなどボデー部品を製造するためトヨタ・モビリンド社を設立し、翌1977年6月、キジャン(KF10型)として発売し、それぞれ好評を博した。

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