第1節 対米乗用車輸出の自主規制

第1項 輸出自主規制の日米合意

1980(昭和55)年、日本の自動車生産は1,000万台を突破し、米国を抜いて世界一になった。牽引したのは輸出であり、同年には過去最高の597万台に達して国内販売台数を逆転した。2度の石油危機を経て、世界的に小型車が注目されるようになり、日本車の燃費性能やリーズナブルな価格への評価が高まっていた。

トヨタ車の輸出も、1980年に初めて乗用車が100万台を超え、商用車を含む輸出比率は54%と過去最高を記録したが、日本車人気が上昇するなか、最大の輸出先である米国との間では、1970年代末から通商摩擦が急速に熱を帯びていった。

景気後退局面にあった1980年の米国の乗用車需要は、前年を16%下回る898万台と低迷した。販売台数の内訳をみると、日本車は9%増の191万台へと増加し、シェアを21.3%に拡大したのに対して、米国車は21%も減少していた。その結果、1980年にはゼネラル・モーターズ(GM)社、フォード・モーター社、クライスラー社のビッグスリーおよびアメリカン・モーターズ社は、軒並み赤字に転落した。とりわけクライスラー社は、連邦政府から15億ドルの融資保証を受けるという苦境に立たされた。

米国の自動車メーカーは、販売不振からレイオフの拡大を余儀なくされ、「日本は失業を輸出している」といった反発が全米自動車労働組合(UAW)や議会の対日強硬派議員の間で強まった。1980年2月にはUAWのダグラス・フレーザー会長が来日し、日本の自動車会社による輸出自主規制と対米投資を訴えた。

UAWは同年6月になると、失業者急増の原因は日本車であるとし、米国国際貿易委員会(ITC)に通商法201条の発動を提訴した。さらに、8月にはフォード社も同じ訴えを起こし、労使一体で日本車の輸入制限による産業保護策を求めた。

トヨタは、現地法人の米国トヨタ(TMS)とともに「ITC問題委員会」を発足させ、対応策の検討などを進めた。そして、全米のトヨタディーラーや輸入車販売店協会などとも連携しながら、トヨタの主張を積極的にアピールしていった。

同年10月のITC公聴会では、TMSのノーマン・リーン副社長が証言者として出席し、米国の自動車産業の苦境は経済情勢がもたらしたもので、輸入車が原因ではないなどと訴えた。これらを踏まえ、翌11月にITCは3対2の委員投票により、日本車へのシロ裁定を下したが、ITCの裁定でこの通商問題が幕引きされるほど、事態は容易なものではなかった。

同年は大統領選挙の年にあたり、日米の貿易不均衡は政治問題化しやすい情勢にもあった。1981年にロナルド・レーガン政権が発足すると、主要閣僚から日本政府に自主規制を求める声があがった。新政権で通商問題を担当する米国通商代表部(USTR)のウィリアム・ブロック代表は、何らかの貿易政策が必要であるとして、日本の通商産業省(現・経済産業省)との交渉に入った。米国議会では同年2月に、今後3年間にわたり日本製乗用車の輸入を年間160万台に制限するという、後日、日米政府が合意する内容の下敷きとなる法案も提出され、日本車への圧力は日増しに高まった。

日本の自動車業界は、米国の自動車業界の立ち直りがはっきりする秋まで事態を静観するべきとし、時期尚早との見解を表明していた。しかし、政治決着が不可避と判断した日本政府は、4月末に田中六助通産大臣がブロック代表と東京で交渉し、自主規制の合意に達した。

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