創業者豊田喜一郎と豊田利三郎の死

「設備近代化5カ年計画」が進行中の1952(昭和27)年3月27日、創業者豊田喜一郎が亡くなった。同年7月の株主総会で社長に復帰することが内定し、復帰の準備に専念しているさなか、突然のできごとであった。豊田英二は、喜一郎の死について、次のように回想している。1

復帰が決まってからは本人もその気になり、張り切っていた。ところが三月二十七日、脳いっ血で突然死んでしまった。まだ五十七歳で、これからという時期であった。いま思うと『張り切りすぎて死んだ』と言えるぐらい張り切っていた。

喜一郎は、1950年6月に社長を辞任したあと、東京と名古屋の間を行き来しながら、ヘリコプターとそれに搭載する新方式のガソリンエンジンの研究に取り組んでいた。2

喜一郎の死から2カ月あまり経った1952年6月3日、初代社長の豊田利三郎が68歳で亡くなった。英二の回想3は、以下のとおりである。

利三郎は喜一郎が死んだときすでに病気で寝込んでおり、葬式にも出られる状態ではなかった。私は喜一郎の葬式の経過を名古屋の家に報告に行ったが、その時、利三郎は「とにかくトヨタは乗用車をやれ」と床の中からうめくように言った。トヨタが自動車をやることに一番反対した人が、死ぬ間際に「トヨタはいまごろトラックばかりやってはいかぬ。何が何でも乗用車をやれ」とハッパをかける。私は利三郎に向かって「乗用車は今準備を進めております。間もなく完成するので、必ず見てください」と励ましたが、利三郎は遂にこれを見ることなく他界した。

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