第4節 工場の新増設

第2項 月産10万台を目指して

豊田英二の社長就任

月産10万台達成を目指して総力をあげているさなかの1967(昭和42)年10月13日、中川不器男社長が心筋梗塞のため急逝した。

中川社長は、1950年の労働争議の後、帝国銀行1から専務取締役として入社して以来、常に石田退三社長を助けてトヨタの再建、繁栄に貢献した。特に1961年に社長に就任してからは、各方面との折衝が重なり多忙な毎日が続いていた。この日も東京での会議に出席し、名古屋に帰ってきてからの急逝であった。

中川不器男社長の死去に伴い、同年10月30日、豊田英二副社長が社長に就任した。豊田英二は後日、その社長就任について以下のように述べている。

社長がいなくなっても、他に代表取締役がいるのだから、会社の当面の業務には支障がないので、中川さんの社葬がすむまで社長は空席とした。私が社長に就任したのは10月30日である。

社長に事故があれば、副社長が昇格するのはあたり前で、意識のうえでは常務でも副社長でも社長になっても別に変わったことはなかった。ただ、驚いたのは、周りの人の見方が変わったことである。(中略)

創業のころ大学出は喜一郎を除けば、私と齋藤尚一君の2人しかいない。この2人が先頭に立って働かなければ、会社はたち行かなくなる。ぼやぼやしているわけにはいかなかった。そして気付いてみたら、トヨタも大会社になっており、私もトップに立っていた。

(豊田英二著『決断―私の履歴書』201~202ページ)

こうしてトヨタは豊田英二新社長のもとで、量産体制の確立をいっそう図っていくこととなった。

このページの先頭へ