第3節 国内市場の急伸長とレクサスの開発

第5項 レクサスの開発

「レクサス憲章」

米国では米国トヨタ(TMS)による「業界最高の販売網構築」を目指したレクサス店づくりが進められた。当初200店を目標に販売店を募集したところ、約1,600店からの応募があり、このなかから1次分として81店が選ばれた。1987(昭和62)年8月には「お客様に十分満足いただけるよう誠心誠意コミットする」などを盛り込んだ「レクサス憲章」を制定し、販売店が群を抜くホスピタリティ(おもてなしの心)で対処するよう徹底していった。

TMSでは、顧客ターゲットを「ヤッピー」と呼ばれ、主に自力で富を築いた新しいタイプの富裕層に絞った。この層の人たちは現実的で価値に敏感であるため、性能面でメルセデス・ベンツの同等クラス車よりも価格を1万ドル程度安く設定した。発売にあたって全米で展開した宣伝のキャッチコピーは「完全への飽くなき追求」であった。こうして、米国のレクサス店は1989(平成元)年9月からLS400とES250の販売を開始した。

お客様のLS400に対する評価は高く、レクサスは短期間で高級車ブランドとして認知された。発売翌年の1990年にはJDパワー社による自動車初期品質調査(IQS:Initial Quality Study)のブランド別ランキングで1位となり、さらに、1991年にはIQSのほかお客様満足度調査(CSI)と販売活動満足度調査(SSI)でもトップとなり、業界初の3冠を獲得した。同年にはSC400(日本名ソアラ)と、ES250を切り替えたES300(同ウィンダム)を投入して商品ラインも充実させ、高級車ブランドとしての地位を確立していった。

LS400は、1989年10月に日本市場でセルシオとして発売したのに続き、1990年には高級車がひしめくヨーロッパ市場にもレクサスブランドで投入した。日米では高い人気を得たものの、ヨーロッパでは商品不足や専売網ではなく既存販売店による「ショップ・イン・ショップ」でのスタートとなったことから、立ち上げ時には苦戦を強いられた。

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