第9節 量産量販に向けての準備

第5項 米国への進出

乗用車輸出の中断

米国の自動車メーカーは、増加する輸入小型車への対策として、1959(昭和34)年秋からシボレー・コルベア、フォード・ファルコン、クライスラー・バリアントなど、コンパクトカーを相次いで発売した。これにより、輸入ヨーロッパ車は大幅に減少し、アメリカ車とクラウンを併売していたほとんどの販売店が、クラウンからコンパクトカーに切り換えた。このような事態を受け、1960年12月にクラウンの対米輸出は中止された。

一方、1960年6月には新型コロナにR型エンジンを搭載したティアラ(RT20L型)の輸出を開始した。しかし、これもクラウンと同様、高速走行時の出力不足、ボデー剛性不足による振動と騒音、足まわりの強度不足、ブレーキの耐久性不足と、品質問題が発生し、米国への輸出は停滞せざるを得なかった。

米国トヨタは、1960年に資本金を200万ドルへと増資し、財務体質の強化を図ったが、同年末には累積損失が142万ドルを超え、さらにその増大が見込まれる状況であった。日本から資金的に支援するにしても、外国為替管理法の制約により、赤字補填的な増資は容易に許可されないところから、米国トヨタは厳しい経営改善が求められた。

改善策の要点は、次のとおりである。

  1. 1.当面の販売はランドクルーザーに限定し、乗用車の販売は米国市場適合車が開発されるまで一時中断する。
  2. 2.ランドクルーザー月販50~60台で採算に乗る経営体質とする。

以上の基本方針に基づき、1961年に米国トヨタでは、人員削減、拠点の縮小、経費の節減に取り組んだ。人員削減については、従業員は57人から37人へと減少し、日本からの出向者も最小限にとどめた。そのほか、本社を直営販売店の建物へ移転し、経費の節減を図った。

このような経営改善の効果に加え、ランドクルーザーの販売台数が増加したため、1961年には利益を計上することができた。その結果、1962年には50万ドルの増資が許可され、資本金は250万ドルとなった。なお、ランドクルーザー中心の販売に切り替えたことにより、米国トヨタのランドクルーザーの販売台数は、1961年の249台から、1964年には2,595台へと4年間で10倍以上に増加した。これらの経営改善策の推進に際しては、米国トヨタの役員を兼務するトヨタ自販の山本定藏常務や加藤誠之専務が現地で直接指揮をとった。さらに、トヨタ自工の豊田英二副社長も現地を訪れ、経営の実情をつぶさに確認するとともに、米国適合車の仕様に関する情報を自ら実体験して、その開発を促した。

その後、1964年9月には高速道路時代を迎えた日本で、3代目コロナRT40型系が発売され、好調な売れ行きをみせた。米国市場向けには、3R型エンジン(1,897cc、90HP/5,000rpm)を搭載した新型コロナRT43L型が開発され、1965年4月からサンプル出荷を開始した。そして、同年末には待望のオートマチック・トランスミッション(AT)搭載車が追加され、米国市場での販売増に大きく貢献した。

ATについては、1950年に英二常務が米国フォード社の研修で学んだあと、将来のイージー・ドライブ化と対米輸出を視野に入れ、研究開発を進めていた。日本での実用化は、1959年に商用車マスターラインへ搭載されたのが最初である。米国の輸入車市場でも、コロナが先鞭をつけることになった。コロナのAT車比率は、1965年には12%であったが、翌年以降は50%以上を占めた。

準備不足のままに設立され、困難な経営を強いられてきた米国トヨタも雌伏8年、ついに米国適合車である新型コロナを得て、浮揚のチャンスをつかんだ。販売店数は、1964年末の200店から、1965年に384店、1966年には606店へと急速に増加し、販売体制を再構築する時期が到来していた。

このページの先頭へ