第2節 モータリゼーションと貿易・資本の自由化

第2項 自動車輸入の自由化

日本は戦後、1ドル360円の為替レートを設定するなど、徐々に国際経済社会に復帰し、対外取引を厳重な管理下に置きながら外資や技術を選択的に取り入れていった。次いで、日米講和条約が発効した1952(昭和27)年にIMF(国際通貨基金)1に加盟し、1953年にはGATT(関税および貿易に関する一般協定)2にも仮加入した。しかし、日本は経済復興の途上にあり、IMFおよびGATTによる義務を完全に履行できる状態ではなかったため、国際収支上の理由による輸入制限と為替制限ができるという留保条件をつけていた。

その後、次第にヨーロッパの主要国が通貨の交換性を回復し、域内の貿易為替の自由化が進むにつれ、日本に対する自由化の要請も高まった。このため、1960年1月、政府は貿易為替自由化促進閣僚会議を設置し、貿易・為替自由化の基本方針を決定し、同年6月に貿易為替自由化計画を策定した。3

開放経済体制への移行という大きな動きを背景に、1961年4月にトラック、バスの完成車輸入が自由化された。完成乗用車については、外国メーカーに比べ量産規模が小さい、価格競争力がないなどの理由から自由化時期が延期された。

一方、同年5月、通商産業省は乗用車の国際競争力を強化するため、乗用車メーカーを次の3グループに分ける「乗用車の3グループ構想」を打ち出した。4

  1. 1.量産車グループ
  2. 2.スポーツカー、高級車グループ
  3. 3.軽乗用車グループ

各グループに属するメーカーは、おのおの2、3社とされた。この構想は発表と同時に大きな波紋を呼び、産業体制そのものの見直しムードが高まった。

こうしたなかで、通商産業大臣の諮問機関として発足した産業構造調査会は、翌1962年4月に乗用車小委員会を設置し、乗用車の将来需要、国際競争力について調査・研究を進めた。さらに、同委員会の研究をもとに、具体的な政策検討機関として乗用車政策特別小委員会が設置され、同年12月に次のような答申を行った。5

  1. 1.自由化時期までに量産体制を確立する必要があり、そのため提携・合併などを促進する。
  2. 2.量産体制の効果が期待できるメーカーに対して、重点的に財政資金を投入する。
  3. 3.国産車の価格を引き下げるとともに、性能の向上を図る。

自動車メーカー各社は、通商産業省をはじめとする政府のこうした動きとは別に、乗用車の国際競争力強化については自らの手でやれるところまでやってみようという考え方が大勢を占めた。各社は乗用車専門工場の拡張を急ぐとともに、1963年9月と1964年6月(一部9月)の2回にわたって、合計約10%程度の乗用車価格の値下げを断行し、さらに相次ぐモデルチェンジにより乗用車の性能改善に懸命の努力を払った。

一方、このような各社の努力が功を奏してか、外国車輸入の割当粋が1963年度下期から増やされ、さらに1964年度からは一部の国からの輸入を除いてほとんど自由に割り当てる方式がとられたにもかかわらず、外国車の輸入は1963年度が1万1,703台、1964年度が1万3,577台とさして増加せず、国内需要の3%以下の水準にとどまった。

こうした国産乗用車工業の成長ぶりを見た政府は、乗用車の生産規模および各社の企業規模に多少の問題を残しながらも、1965年10月1日から完成乗用車の輸入自由化に踏み切った。

このページの先頭へ