第3節 基礎技術の研究・開発

第5項 電装品の研究・開発

豊田自動織機製作所自動車部で製造されたGA型トラックや、AA型乗用車の電装品は、当初輸入品が用いられていた。1その理由について、豊田喜一郎は、次のように語っている。

此の際新しいものを採用するよりも、今まで一般に使用し馴れて居る物を採用する事が、吾々の製品の善悪を判断する上に於て止むを得ない方法である為めに、暫くの間は外国製品を使用することにしました。例へば電気部分品カーブレーター、プラッグ、オイルブレーキ等は外国製品を使用することにしました。(中略)トヨタが作った車で当分の間は自分自身に於てどれだけ良いか、悪いか解りません。一旦トヨタから出した車は何処が悪くても全責任を負わなければなりません。それを他の部分に罪を着せずに、自家製部分の悪い所を云ひ逃れの出来ぬ様にさせるといふ事は、自分自身の製品に自信をつける最も大切なことであります。2

電装品の調査・研究は、G1型トラックが発売された1935(昭和10)年末ごろ、喜一郎の指示によりスタートした。3紡織設計室で精紡機用モーターを研究していた電気技術者たちが中心となり、G1型トラックのA型エンジンに使用されたデルコレミー社製のゼネレーター(直流発電機)、スターター(始動機)、ディストリビューター(配電器)、イグニッション・コイル(点火コイル)などを分解・スケッチすることから始まった。当時、電装品の国産化はかなり進んでいた4が、それにもかかわらず、喜一郎が電装品の自社開発を指示したのは、自助努力により電気技術を身につけ、さらにその技術を発展させるという考えを持っていたからであった。

紡織設計室でスケッチされた図面に基づき、研究工場の一角で電装品の試作を開始し、1936年10月には発電機の試作第1号が完成した。ところが、これと前後して、同年9月に豊田自動織機製作所は「自動車製造事業法」の許可会社に指定され、1938年以降、国産部品の使用が義務づけられた。そのため、電装品の社内開発を急ぐとともに、それが間に合わない場合を考慮し、専門メーカー1社への発注を追加することになった。

この方針に従い、電機メーカー6社5の見本品を試験した結果、日立製作所への発注が決まった。日立製作所製の電装品6は、豊田自動織機製作所と同じくデルコレミー社製をスケッチしたもので、図面の寸法はほぼ一致しており、差異はインチをミリメートルに換算する際の誤差程度であった。

1936年11月にはエンジン工場の西側に200坪(660m2)の電装品工場が完成7し、翌1937年1月から試作を開始した。試作品の製作で苦労したのは、材料の入手であった。特殊サイズの少しばかりの電線や、少量のベークライト(フェノール樹脂)成形部品の注文を受けてくれるメーカーがなかなか見つからなかった。また、ディストリビューター用のコンデンサーも国産化したが、国産のコンデンサー・ペーパーがないため輸入品を用いた。点火コイルの絶縁用層間紙は、和紙に絶縁ワニスを含浸させて製作し、2次コイル用エナメル線の絶縁塗料には、桐油を用いた特製の速乾性加熱乾燥用ワニスを開発し、コイルの断線や絶縁不良の解決を図った。

試作品は、隣のエンジン工場でエンジンに組み付けられ、試運転台上で試験を行ったが、さまざまな不具合が発生した。例えば、発電機では出力不足や整流子の遠心力による飛散、スターターではギア、シャフト、スプリングなどの破損、点火コイルの焼損や断線、ディストリビューターの進角不良などである。失敗を繰り返しながら改良を重ね、1937年7月ごろには実用可能な電装品が製作できるようになった。8

電装工場は、1938年11月にトヨタ自工が挙母工場へ移転するとともに、以前は自動車組立工場であった刈谷工場へ移り、残留したトラック車体工場や東京芝浦工場から移転してきたラジエーター工場とともに操業することになった。そして、ラジエーターに使われる材料の銅、真鍮、ハンダが電装品と共通するところから、電装工場がラジエーターも担当することになったのである。9

その後、1943年2月に電装工場は中央紡績から借用した刈谷北工場(刈谷部品工場)10への移転準備を開始した。ところが、状況が一変し、トヨタ自工が同年初めから挙母工場で準備を進めていた航空機用空冷エンジンの生産を刈谷部品工場で行うことになった。この決定を受けて、同年9月にラジエーター工場が刈谷部品工場から挙母工場に移転し、10月には挙母工場から航空機エンジン加工用の工作機械が刈谷部品工場へ一括搬入された。結局、電装工場は11月に中央紡績の刈谷南工場11に移転した。

戦後、1946年10月にトヨタ自工は紡織部を設置し、刈谷南工場で紡織業を再開した。その後、紡織部の分離独立が検討されるに伴い、1948年10月に電装工場は刈谷南工場から刈谷北工場に移転することになった。同時に、ラジエーター工場が挙母工場から同工場へ移転し、両工場をあわせて刈谷北工場が電装工場と改称された。そして、1949年12月16日、電装工場はトヨタ自工から分離独立し、日本電装株式会社が設立された。現在の株式会社デンソーである。

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