第5節 日米通商問題の新展開

第3項 日米包括協議と「新国際ビジネスプラン」

1993(平成5)年、米国ではビル・クリントン政権が発足した。同年7月に行われた東京サミットでの宮沢喜一首相との首脳会談では「日米間の新たな経済パートナーシップのための枠組みに関する共同声明」が発表され、それに基づいて日米包括協議が始まった。自動車・同部品の分野は依然として大きなテーマと位置づけられ、1995年6月の最終合意に至るまで約2年の長期交渉となった。

米国政府は、協議の開始時点から自動車・同部品の輸入・調達などに関して日本側に数値目標の設定を求めるなど、厳しい姿勢で臨んだ。そのため、両政府が合意点を見いだすのは困難な状況となり、協議は次第に停滞の様相を呈した。こうしたなか、トヨタは1994年3月に「中期の国際ビジネスへの取り組み」を発表した。米国だけでなく全世界との協調を目指し、グローバルな完成車の生産・供給体制や部品・資材の調達体制の構築を柱としたものであった。

その主な内容をみると、完成車の生産体制についてはトヨタ・モーター・マニュファクチャリング・USA(TMM、現・TMMK)やトヨタ・モーター・マニュファクチャリング・UK(TMUK)を中心とした現地生産の拡充を図り、海外生産を1993年実績の89万台から、1996年には5割程度増加させることを目標に掲げた。また、海外拠点からの輸出促進にも取り組み、米国での生産車については日本を含むアジアや欧州向けに、1996年には8万台の輸出を目指すこととした。

1994年10月には日本自動車工業会(自工会)も日本メーカーの努力姿勢を示すために「国際協調のための自工会アクションプラン」を発表した。米国政府は、民間である自工会のプランに日本政府が権限を及ぼすことはできないと認めながらも、同プランの数値上乗せを主張し、同年10月に日本の補修部品市場に関して米通商法301条に基づく調査を開始した。これにより協議はいったん決裂状態となった。

翌1995年5月になると、ミッキー・カンター米通商代表部(USTR)代表は、日本の自動車・同部品市場の閉鎖性を国際貿易機関(WTO)の場で協議することを表明した。同時に、米通商法301条に基づいて日本製高級車13車種の輸入に100%の従価税を課す「一方的措置に係わる候補リスト」も発表した。これに対して日本政府は、こうしたリストの発表自体がWTOルールに違反するとして、同機関での紛争処理手続きを開始した。

交渉は長引くかと思われたが、1995年6月下旬に橋本龍太郎通産大臣とカンター代表の閣僚協議が開かれ、一転して決着することになった。日本政府は自動車業界の数値目標には関与しないとの原則を貫き、米国側は日本の主要自動車メーカーの自主的な計画を評価することで、双方の合意が成立したのである。この決着を受け、日本の自動車メーカー各社は自主計画を相次いで発表した。

トヨタでは、合意翌日の6月29日未明に、「現地化の推進」と「輸入の拡大」を柱とする「新国際ビジネスプラン」を発表した。現地化については海外生産を加速させ、海外での販売における海外生産車の比率を1994年実績の48%から1998年には約65%に引き上げることなどを掲げた。また、輸入の拡大では1996年からゼネラル・モーターズ(GM)社製「トヨタキャバリエ」の輸入を開始するほか、TMM製「アバロン」の新規輸入、組付用・補修用部品の調達拡大への取り組みなどを盛り込んだ。さらに、1998年を最終とする同プランの推進状況を内外にオープンにするため、1999年3月のファイナルレポートに至るまで4回にわたって進捗報告を発表し、プランの着実な実行をアピールしていった。

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