第5節 日米通商問題の新展開

第2項 日米構造協議―深刻化する日米自動車摩擦

1989(平成元)年はベルリンの壁崩壊、東西冷戦の終結と国際政治情勢が大きな転換点を迎え、経済では地球規模での市場ボーダレス化が始まる年となった。日米間の経済摩擦は相変わらず最大の政治問題であり、同年9月からは政府間で日米構造協議(SII)が進められた。対外不均衡是正の障害となっている両国の構造的な問題を互いに指摘し合い、是正を図るという新しいタイプの経済交渉であった。

米国側は、排他的取引慣行などの6項目を日本の構造問題とし、その具体的分野の一つとして自動車部品を指摘した。日本メーカーによる米国製自動車部品の調達拡大問題は、1986(昭和61)~87年の市場重視型分野別(MOSS)協議で一応の決着をみたものの、米国側はSIIでも継続的にこの分野を取り上げてきた。

1990年2月にはSIIの場で、米国側は自動車部品企業が直面する「日本市場での販売障壁」の改善策として系列取引の是正など13項目を提示した。当時、米国の新車市場は1989年から3年連続で減少し、同国の自動車業界は再び経営不振に陥っていたことから、1980年代初頭の再来のように、日米自動車摩擦が深刻化していったのである。

1992年1月になると、同年の大統領選挙で再選を目指すジョージ・ブッシュ大統領がビッグスリーの代表とともに来日し、米国からの部品購入問題などが宮沢喜一首相との首脳会談で取り上げられた。会談後に発表された「東京宣言」(グローバル・パートナーシップ行動計画)には、日本の自動車メーカーによる部品購入の努力目標が掲げられた。

MOSS協議では設定されなかった数値目標がボランタリープランとして掲げられ、日本メーカーの米国現地工場での調達と日本への輸入との合計で、1994年度には約190億ドルを目指すこととなった。1990年度実績は約90億ドルであったので、この目標額は2倍強に相当する。さらに同宣言には、日本の自動車メーカーによるデザイン・インの推進、米国での研究開発拠点の拡充、部品メーカーとの長期的ビジネス関係の構築への努力などが盛り込まれた。

1990年以降、トヨタでは「北米輸入サプライヤーズミーティング」を開催するなど北米の部品メーカーとの接点拡大に努めていたが、東京宣言に沿って米国に「サプライヤー支援センター」の開設を決めた。この支援センターは、1992年9月にトヨタ・モーター・マニュファクチャリング・USA(TMM、現・TMMK)が立地するケンタッキー州のレキシントンにオープンし、製造上の品質・コスト改善などの支援活動を始めた。当初、支援センターには14人のスタッフが配置され、さらにTMMの張富士夫社長やニュー・ユナイテッド・モーター・マニュファクチャリング(NUMMI)の木村修社長らによる理事会も設置し、北米のサプライヤーや一般の製造事業者への改善協力に真摯に取り組んだ。

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