第2節 創立50周年と円高への対応

第2項 徹底した原価低減活動

「円高緊急対策委員会」の発足

「プラザ合意」から約1年後の1986(昭和61)年10月には辻源太郎副会長を委員長とする「円高緊急対策委員会」が発足した。全役員が委員を務めるという異例の委員会で、円高という課題に真正面から取り組むための機関であった。各部門では新たな発想のもとに「ヒト、モノ、カネ」のすべてにわたって見直しを進めた。

すでに、1986年4月には全社的な仕事の革新運動として「チャレンジ50」の展開を始めていたが、この取り組みも円高緊急対策委員会の発足を機に加速された。チャレンジ50は業務の工数、リードタイム、書類、会議時間を50%減らすという高い目標を掲げた運動で、思い切った事務革新への挑戦を目的とした。書類については「ペーパーレス50」、会議については「会議の効率化50」というようにテーマ別に徹底して推進した。資料作成と移動時間も含めた会議の総工数は、1987年6月には前年同月実績との比較で約3割の削減となるなど、着実に成果をあげていった。

チャレンジ50の推進にあたっては、ワープロやパソコンなどの普及によるOA化や情報通信技術の進展を積極的に利用した。その一例として、1987年には本社、東京、名古屋の各オフィスおよび東富士研究所の間でテレビ会議システムを導入し、機動的な打ち合わせや会議の効率アップを図った。また、社内にATMを設置し、給与支給の工数削減を図るため、同年から給与・賞与の銀行振込を開始した。

1ドルが150円を突破した1987年1月、トヨタが50周年を迎える年であることから、協豊会と栄豊会は合同で年次大会を開催した。この席上、豊田英二会長は創業時からこれまで乗り切ってきたトヨタの危機を振り返りながら「原価との闘い」と題する、以下の要旨からなる講演を行い、取引先各社に協力を訴えた。

われわれは、創業当初、外車よりも高いコストの低減に取り組み、これを克服してきた。また、自由化のときも不可能と思えるような大幅な原価低減に取り組んだ。こうした創業以来の原価との闘いを振り返ってみると、今日の円高下の原価との闘いは生き残りのための原価との闘いともいえる。難しい局面ではあるが、克服できない事態ではない。新しい覚悟をもって皆さんとともに進んでいきたいと思っている。

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