第9節 量産量販に向けての準備

第5項 米国への進出

米国トヨタの設立とクラウンの輸出

1957(昭和32)年8月、トヨタ自販の加藤誠之常務ら3人は、米国へのトヨタ車輸出の先遣隊として渡米し、販売会社の設立に着手した。日本から送られてきた見本車のクラウンとクラウン・デラックスの2台を受け取り、販売店へのお披露目を兼ねながら試験走行を行った。

トヨタ自工のテクニカルセンターに、一周2kmのテストコースが完成したのは、その前年の1956年9月であり、本格的な高速耐久試験を行っていない状態で、クラウンを米国に持ち込むには無理があった。当初から危惧されていたことではあったが、高速道路を走っていると、突然エンジン音が騒々しくなって出力が低下し、米国で販売できる性能ではなかった。

このような性能であったにもかかわらず、米国進出を決断したのは、クラウンの国内での評価が高かったことや、既述した「ロンドン・東京5万キロ・ドライブ」の成功から、車両性能に対する過度の期待があったことは否めない。また、実際に現地で車両法規や自動車市場の実情などを調査することなしに進出したため、思わぬ苦労をする結果になった。

しかし、とにかく米国市場に進出するための足場を築くということで、トヨタ自工とトヨタ自販の意見は一致し、1957年10月31日、米国カリフォルニア州法人の米国トヨタ販売会社(Toyota Motor Sales, U.S.A., Inc. 米国トヨタ)が設立された。資本金の100万ドルは両社が折半出資し、取締役はトヨタ自工の石田退三社長、中川不器男副社長、トヨタ自販の神谷正太郎社長、加藤誠之常務、中江温常務、山本定藏取締役の6人であった。米国トヨタの社長はトヨタ自販の神谷社長が務め、副社長にトヨタ自販の小林鉱油部次長が就任した。本社はハリウッド大通り6,032番地に置かれた。

米国トヨタの業務は、自動車の輸入から小売に至る諸手続を調べ、それに必要な帳票類をそろえることから始まった。そうした調査のなかで、輸入と卸売の間、卸売と小売の間で取引価格の公正を期すため、輸入、卸売、小売の会社を別々にする必要があることがわかった。そこで、米国トヨタから卸売業務を切り離すこととし、1958年2月にトヨタ・モーター・ディストリビューター社を設立した。あわせて、小売業務の習得を目的に、販売店のハリウッド・トヨタ社を設立した。

また、各州の車両法規に基づく車両の認証取得が必要であり、カリフォルニア州で車両を販売するには、カリフォルニア・ハイウエイ・パトロールの認証を得なければならなかった。同州では、ヘッドライトの照度がアメリカで普及しているシールド・ビームを基準に設定されており、これを採用していないクラウンは要件を満たしていなかった。そのため、ヘッドライトなしのクラウンを輸入し、米国でGE製ランプを装着することになった。

このような準備を経て、1958年6月にヘッドライトなしのクラウン・デラックス30台が船積みされ、本格的な対米輸出が始まった。しかし、懸念されていた性能・品質などの問題が顕在化し、高速道路走行時の出力不足、高速安定性の不備、激しい騒音と振動、異常な振動、変形による部品の破損などが発生した。これらの不具合に対しては、1960年7月に出力を増大し、高速走行性能を改善したRS22L型シリーズや、RS32L型シリーズを投入した。

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