第2節 工販合併―トヨタ自動車の発足

第2項 新生トヨタ自動車の誕生

工販合併

トヨタ自工とトヨタ自販の合併覚書1の調印は、1982(昭和57)年1月25日に行われた。覚書の主な内容は、自工と自販とは対等な立場で合併すること、合併期日は1982年7月1日をめどとすること、などであった。

調印後の記者会見で、自工の豊田英二社長と自販の豊田章一郎社長は、次のような合併の趣旨を発表した。

激動の80年代に対処し、トヨタが築きあげてきた地歩をより発展させてゆくためには、今こそ、生産・販売という表裏一体の機能をより総合的かつ機動的に発揮することが必要である。そして、そのためには、すでに実質的に一体化しつつある両社の運営をさらに推し進め、両社の体制を一元化して意思決定をより迅速にし、人材を一層有効に活用し、資金その他の経営資源を必要な分野に効率的に投入する体制づくりが肝要であり、両社は、その最善の方策が両社の合併であるとの共通の認識に達したしだいである。

1月27日には早速、自工の辻源太郎専務を委員長とする「合併準備委員会」が発足した 。委員会は両社から常務、取締役が1人ずつ参画し、計5人で構成した。合併期日の7月1日は、決断した以上早いほうがよいという方針で定められたため、時間的余裕はなく、委員会ではただちに合併比率、資本金、役員構成、組織、主取引先銀行など合併に必要な事項の具体的な検討・調整に着手した。

1950年4月に販売部門を分離したトヨタ自販が設立されて以来、工販両社は、32年間にわたり生産と販売を分担してきた。分離当初から、両社は一体的運営を申し合わせ、1962年には双方の代表取締役による会議体を設置して重要事項について意思の疎通を図ってきた。こうした取り組みによってそれぞれの担当分野に経営資源を集中投入することができ、業界をリードするポジションを得ることができた。また、1978年からは工販でいっそうの一体感を醸成するため人事交流を始めたほか、新任管理職や新入社員の合同研修も開始した。しかし、激化する通商摩擦問題や海外への工場進出問題などに対処して迅速な意思決定を図るには、工販の諸機能を統合・再構築する必要があったのである。

合併の準備作業は急ピッチで進み、1982年3月15日には自工から花井正八会長、豊田英二社長、自販から加藤誠之会長、豊田章一郎社長が出席して合併契約書に調印した。その主な内容は、以下のとおりである。

  1. 1.トヨタ自工は、合併期日に商号をトヨタ自動車株式会社(TOYOTA MOTOR CORPORATION)と変更する。
  2. 2.トヨタ自工は、授権株数を20億株(1,000億円)増加し、その総数を60億株(3,000億円)とする。
  3. 3.トヨタ自販株1株につきトヨタ自工株0.75株の割合で、新会社株式を割当交付する。ただし、トヨタ自工が所有するトヨタ自販株2億1,000万株は割当をしない。

両社は、5月13日に合併契約書承認の臨時株主総会を開催し、原案どおり承認した。この間、5月8日には公正取引委員会の承認も得ており、7月1日の合併期日までに必要な法的手続きを完了した。2

こうして、1982年7月1日、32年ぶりに一つの会社になった新生トヨタが発足した。初の取締役会を前にした午前9時30分には、監査役を含む53人の全役員が出席し、本社で社名石の除幕式が行われた。自工の豊田英二社長と自販の豊田章一郎社長が力強く綱を引くと、「トヨタ自動車株式会社」と彫られたマホガニーレッドの米国産御影石が現れた。

同日の取締役会では、豊田英二を会長に、旧トヨタ自工副社長の山本重信を副会長に、豊田章一郎を社長に選任し、同時に、専務以上による部門統括制を導入して、それぞれの担当部門を決めた。新会社の資本金は1,209億491万1,000円、従業員数は5万6,700人であった。

同日午後、記者会見した豊田会長と豊田社長は、次のような経営方針を明らかにした。

  1. 1.お客様第一主義をモットーに、販売店、仕入先、トヨタ自動車が一体となって魅力ある商品を提供する。
  2. 2.国内販売200万台体制を打ち立てるとともに、海外戦略も長期的視野にたって積極的に推進する。
  3. 3.合併によって得た利益を消費者に安くて良い車を提供することで還元する。

また、豊田社長は「3つのC3を念頭において」として、新生トヨタの歴史をつくる決意を述べた。

そしてこの日、豊田会長は「トヨタの戦後は終わった」で始まるメッセージ4を全従業員に送った。

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