ドッジ不況と自動車生産・販売の自由化

第2次世界大戦後、新たな国際秩序が形成されるとともに、東西両陣営の対立が鮮明になった。このような国際情勢の変化に伴い、GHQ(連合国軍総司令部)の経済政策も日本の民主化から安定化・自立化へと転換した。1948(昭和23)年12月には「経済安定9原則」の実施が日本政府に指令され、これに沿った経済安定化政策を指導するため、1949年2月1日にデトロイト銀行頭取ジョセフ・ドッジが公使兼GHQ財政顧問として来日した。

ドッジ公使は、「ドッジ・ライン」と呼ばれる一連の経済安定化政策を進めた。その基本は、通貨供給量を減らし、インフレを克服することにあった。具体的な施策としては、総需要を抑制するための超均衡予算の編成があげられる。1949年度予算はドッジ公使の指導により、それまでの赤字予算から、一転して黒字に転換する超緊縮予算となった。

このような急激なインフレ抑制策は、物価の急速な安定をもたらしたが、その一方で通貨供給量の減少により、産業界は深刻な資金不足に陥って失業や倒産が相次ぎ、いわゆる「ドッジ不況」がおこった。自動車業界では、1949年4月以降、普通トラックの需要が鈍化したため、配給統制下の割当車両を辞退する販売店も現れた。同年7~8月には販売店の引き取り辞退から、トヨタ自工の在庫台数が一時400台を上回った。

ドッジ・ラインの経済安定化施策の一つとして、1949年4月23日には1ドル360円の単一為替レートが実施された。市場経済の機能回復を目指した政策であり、あわせて補助金の廃止、各種の制限や統制の撤廃を行った。

1949年8月25日には石炭の配給統制が撤廃され、翌9月に製鉄用原料炭に支給されていた補助金が廃止された。これに伴い、同月には鉄鋼の統制価格が32~37%程度値上げされたが、自動車の公定価格は据え置かれたままという事態が生じた。当時の自動車工業の統制を確認しておくと、生産用資材は公定価格による割当配給制、販売は配給申請に基づく公定価格による割当配給制であった。このためトヨタ自工では、必死の原価低減努力を傾けたものの、資材と製品の公定価格差を埋めることは難しく、毎月約2,200万円の赤字が続くことが予想された。

そのような状況のなかで、1949年10月25日にGHQは「自動車の生産販売についての制限の全面的解除に関する覚書」を発令した。これにより、自動車の生産・販売は原則自由になったが、生産用資材の供給については通商産業省による割当配給制が残り、資材や自動車の価格は統制されたままであった。しかも、資材の統制価格はその後順次引き上げられたのに対し、自動車の統制価格は1950年4月まで据え置かれたため、自動車事業の採算はきわめて厳しい状態が続いた。

こうした業績の悪化は、トヨタ自工ばかりでなく、日産自動車、いすゞ自動車も同様であった。1949年10月には1,000人を超す人員整理が発表されたことに端を発し、激しい労働争議が両社で起こった。

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