第6節 戦後の事業整理と労働争議
第6項 労働争議と喜一郎社長の辞任
芝浦・蒲田工場の閉鎖
東京の芝浦工場と蒲田工場は、争議中の1950(昭和25)年5月から独立採算制となり、閉鎖に向けての準備が始まった。
芝浦工場は、1936年5月に豊田自動織機製作所自動車部の芝浦研究所として発足し、1945年3月の東京大空襲で施設の90%を焼失した。1戦後、工場の復旧が成ってからは、自動車の再生・修理を行った。1950年6月に芝浦工場が閉鎖されると、その要員を引き継いで東京芝浦自動車工業株式会社(社長:長谷川信治元芝浦工場長)、および日本ボディー株式会社(代表:内藤子生2)の2社が設立された。両社は、旧芝浦工場の設備を賃借し、自動車の再生・修理・ボデー架装などにあたった。
しかし、1953年には両社とも事業不振のために解散され、その設備と要員は、1954年6月に設立されたトヨペット整備株式会社に引き継がれた。同社は、1964年に株式会社トヨペットサービスセンターに社名を変更し、さらに1990(平成2)年にはトヨタテクノクラフト株式会社と改称した。現在は、自動車の整備・修理、特殊車の架装・改造、受託車両の開発・試作・改造などを行っている。
蒲田工場は、芝浦工場が戦災に遭ったため、戦後その代わりとして、日本内燃機から借用した工場である。日本内燃機は、トヨタ自工の取締役であった寺田甚吉3が社長を務めていた会社で、その在任中には豊田喜一郎も同社の取締役に就任していた。蒲田工場では、1947年2月から占領軍払い下げ車両(GMC武器運搬車)の改造・整備作業を開始した。
このように、蒲田工場は自動車の再生作業を目的にスタートしたが、再生すべき自動車の台数自体が限られていたところから、事業は長続きしなかった。事業の転換に向けて、小型トラックのボデー試作などを試みていたさなか、ドッジ・ラインによる深刻な不況に襲われ、トヨタ自工の再建策の一環として、閉鎖のやむなきに至った4のである。
蒲田工場の設備は日本内燃機に返却され、従業員は工場のない状態で、新たな事業に取り組まなければならなかった。再出発した事業の一つであるセントラル自動車では、ボデー架装事業に進出し、その後トヨタ自工の新車用ボデーの製造・組立を担う会社となった。5