第6節 戦後の事業整理と労働争議

第5項 米軍用車修理事業と小型車開発

占領政策の一つとして、米軍用車の修理作業が自動車会社に発注された。米軍が発行する修理作業発注書を“Procurement Demand(PD)”と称したところから、トヨタ自工では、これを「PD作業」と呼んだ。

1947(昭和22)年4月、米第5空軍から乗用車の修理作業発注書を受領し、挙母工場で作業を開始した。作業工程をみておくと、修理車両は第3機械工場内に設けられた解体場で、エンジン、フレーム、ボデーに分離され、パーツごとに修理したうえで、塗装、メッキを施し、組立工場で組み立てられた。また、刈谷北工場では、同年6月に同じく米第5空軍から、ジープ、トラックの修理を受注し、1年間ほど作業を行った。

挙母工場では、1948年7月と1949年10月にも修理作業を受注した。しかし、同月には乗用車の生産が解禁され、トヨタ自工でも乗用車の製造を開始したため、米軍用車の修理作業は1950年3月で打ち切った。それまでに約300台を修理し、大部分はクライスラー社の乗用車プリムスであった。

終戦直後、占領政策により、乗用車の生産は禁じられたが、研究開発は自由であった。トヨタ自工では、1945年10月中旬から小型車用エンジンの設計を開始し、1946年2月に出図を完了した。ただちに試作に取りかかり、同年11月にS型エンジン試作第1号が完成し、1947年4月に発売のSB型トラックに搭載された。

S型エンジンの各部構造は、英国フォード社のベビー・フォードを、主要諸元および性能については、ドイツのアドラー社のアドラー「トランプ・ジュニア」を参考にした。1S型エンジンとベビー・フォード、アドラーのエンジンを比較すると、表1-21のとおりである。

S型エンジンは、トヨタ車のなかで唯一の側弁(サイドバルブ、SV)式エンジンである。トヨタ車では、最初のA型エンジンから、1945年までに開発されたエンジンには、すべて頭上弁(オバー・ヘッド・バルブ、OHV)式を採用していた。2

ただし、日産自動車のエンジンとの部品共通化を図るため、6気筒サイドバルブ・エンジンの開発を行う計画もあった。その設計を指示した1941年9月10日付の命令書3によると、サイドバルブ・エンジンを「製作容易」とする半面、「能率の優秀なるものを作ること」と燃焼効率の向上が指示されていた。このサイドバルブ・エンジンは、1943年にL型エンジン4(6気筒、3,790cc)として設計が完了したが、試作されることはなかった。

S型エンジン開発当時の設計担当者は、サイドバルブ式を採用した理由として、「より以上に簡易さと堅実さとを要望された為」と述べている。5自動車製造用の資材は配給制により供給不足であり、また現有設備を利用しての製造であるため、構造が簡易で、部品点数が少ないSV式を採用したのは、当時の情勢に適合した当然の選択といえよう。

なお、S型エンジンを搭載した車両については、第8節第1項のS型エンジン搭載の小型車開発で後述する。

表1-21 S型エンジンの仕様(1947年)


S型
ベビー・フォード
アドラー
型式
水冷直列、4気筒、側弁式
内径×行程
65×75mm
56.6×92.5mm
65×75mm
総排気量
995cc
939cc
995cc
圧縮比
6.5:1
6:1
最高出力
27HP/4000rpm
22HP/4000rpm
25HP/4000rpm
最大トルク
5.9kg・m/2400rpm
(出典)
S型:『トヨタ技術』(1948年3月1日)30ページ
ベビー・フォード(モデルY):British Cars(1974)129ページ
アドラー(Adler"Trumpf Junior”):Autos in Deutschland 1920-1939(1963)22ページ

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