第4節 自動車部組立工場と挙母工場の建設

第4項 挙母工場の概要

1938(昭和13)年11月に完成した挙母工場第1期工事は、敷地面積15万坪(約50万m2)、建坪約6万坪(約20万m2)で、その総工費は4,500万円に達した。

挙母工場は、表1-5からわかるように、鋳造・鍛造の粗形材製造工程から始まり、機械加工、機械組付、さらにプレス、車体組付、塗装、総組立と、自動車生産に必要な工程をすべて備えた一貫生産工場であった。各工程は相互に連続するように配置されており、のちの工場建設の基礎になった。

表1-5 挙母工場の施設(1938年)

種別
工場
製品
寸法(尺)
面積(坪)
面積(m2)
鋳造
特殊鋳物工場
シリンダーブロック、シリンダーヘッド
138×276
1,058
3,491
普通鋳物工場
トランスミッション・ケース他
78×501
1,085
3,582
可鍛鋳鉄工場
ディファレンシャル・ケース他
90×501
1,252
4,133
焼鈍工場
可鍛鋳鉄製品熱処理
366×90
915
3,019
芯取(中子)工場
各種中子
138×150
575
1,897
木型工場
鋳造品用木型
72×204
408
1,346
(第2特殊鋳物工場)
(鋳鋼製クランクシャフト)
(108×300)
(900)
(2,970)
工機
工具機械工場
治工具、工作機械
120×390
1,300
4,290
鍛造
鍛造工場
リアアクスルシャフト、ナックル・アーム、コネクティングロッド、歯車他
84×384
896
2,956
調質工場
鍛造部品熱処理
96×144
384
1,267
機械
第1機械工場
エンジン部品機械加工
168×360
1,680
5,544
第1組付工場
エンジン組付、試験
168×270
1,260
4,158
第2機械工場
ミッション、ステアリング部品機械加工
168×360
1,680
5,544
第2組付工場
ミッション、ステアリング組付
168×270
1,260
4,158
第3機械工場
足回り部品機械加工
168×360
1,680
5,544
第3組付工場
足回り部品組付
168×270
1,260
4,158
メッキ
メッキ工場
メッキ加工
96×180
480
1,584
熱処理
焼入工場
浸炭・浸炭浸窒焼入れ、焼戻しの熱処理
108×270
810
2,673
プレス
プレス工場
プレス部品
120×570
1,900
6,270
車体
車体工場
車体部品の鈑金加工、ボデー組付
240×720
4,800
15,840
塗装
第1塗装工場
フレーム、足回り部品エナメル焼付塗装
42×450
525
1,732
第2塗装工場
小物部品ラッカー吹付塗装
66×450
825
2,725
第3塗装工場
車体塗装
90×450
1,125
3,712
組立
総組立工場
乗用車艤装(2階)、トラック・シャシー組立、乗用車組立(1階)
120×450
1,500
4,950
×2
×2
×2
検査
調整工場
完成車、完成シャシー点検、調整
120×90
300
990
修正
修正工場
塗装手直し
36×156
156
514
(注)
( )は1939年以降に着工の施設。

この工程の連続性に関しては、「ジャスト・イン・タイム」(次項で記述)による流れ生産の実現を目指し、鋳物工場の砂処理設備、鋳物砂搬送、塗装工場、総組立工場などに各種の搬送コンベアを導入した。また機械工場では、当初コンベア・システムは導入されなかったが、いずれ設置するときにコンベアが他の設備と干渉しないよう、工場建物内の上部空間に配慮し、電力配線や蒸気・圧縮空気の配管を地下ピットないし柱に取り付けるなど、あらかじめコンベア用スペースの確保を図った。

こうした直接的な生産用設備のほかに、テストコース、火造(鍛冶)工場、営繕工場、各種倉庫、食堂などが付属し、技術部門としては、工務室(技術役員室を含む)、設計室、化学実験室、自動車実験室、航空機研究室、写真室(図面室)、試作工場などがあった。さらに、本社事務所、寄宿舎、青年学校(技能者養成所)など、管理・福利関係の施設が設置された。

豊田喜一郎は、挙母工場の意義1について、次のように語っている。

自動車をもっと完全なもの、便利なもの、経済的なものに、改良する事は吾々の使命であります。この改良を出来るだけ早く然も犠牲を少なくして出来る方法はないか、之が過去五年間吾々の頭を悩ました問題であった。其れにはどうしても工場組織を根本的に改革しなくてはならぬのです。

刈谷の工場では随分骨折ってみたが、あれではどうしても思う様な改良が出来ぬ。豊田は最初から自動車事業で飯を喰う積りで始めたのではない。何とか立派な自動車を作ってみたい。半ば道楽気が手伝って始めたのである。併し改良進歩が出来ない様な工場組織では自動車事業をやる価値がない。そこで挙母に移転し全く新しい設備と、新しい組織でやる事にしたのです。刈谷でも拡張して行けば二十万坪や三十万坪の地所はどうでもなったのであるが、それでは思い切った大改革が出来ないので、不便を忍んで挙母に全く新しく工場を作りなおした訳で御座います。挙母工場が完成致しますと、これからは犠牲も極く少なくして早く改良することが出来る組織になりました。

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