第3節 北米で現地生産をスタート

第1項 フォード・モーター社との提携交渉

1979(昭和54)年の第2次石油危機後、小型車へのシフトが加速するなかで、米国の自動車メーカーは苦境に立ち、日米経済摩擦が深刻化していった。

この時期、トヨタは米国での現地生産化という重大な決断を迫られることになった。1980年1月には本田技研工業が、すでに2輪車工場があるオハイオ州で乗用車の生産に乗り出すと発表しており、次いで、同年4月には日産自動車もテネシー州に小型トラック工場を建設する計画を打ち出した。

米国の各州から相次いで工場誘致の申し入れを受けたトヨタは、1980年4月に日米のリサーチ会社3社に委託し、進出のための調査に着手した。調査の結果は、積極的な進出を促すものから、慎重な対応を勧めるものまで幅があった。採算性についても前提条件によるが、決定的に進出が有利との判断はなかった。

調査を進める一方、トヨタでは現地進出の具体策を固めていった。具体策とは、フォード・モーター社との乗用車の合弁生産である。1980年5月、トヨタ自工の豊田英二社長はフォード社のドナルド・ピーターセン社長あてに親書をしたため、合弁生産を提案した。合弁生産を通じた小型車の開発・生産という日米の産業協力が、苦境に陥った米国自動車産業の復活に役立つと判断したからであった。フォード社を交渉先に選んだ背景には、それまでトヨタがフォード社から多くのことを学んできたという経緯もあった。

ピーターセン社長は、1980年6月に来日すると、トヨタ自工の本社でトップ会談を行い、ここから本格的な交渉がスタートした。トヨタ側は、のちに「カムリ」として発売される開発中のニューモデルをフォード社の工場で生産し、双方のチャネルで販売することを提案した。しかし、このモデルはフォードが開発中の新小型車と競合するという理由で見送られた。次いで、カムリよりやや小さい乗用車を提案したが、このモデルもフォード社の開発計画と競合することが判明し、交渉は暗礁に乗り上げた。

その後、フォード社はトヨタのワンボックス車「タウンエース」の商品性に興味を持ち、これをベースにしたワゴン車を共同生産することで、1981年3月に一度は合意に達した。ところが、フォード社がプロダクトクリニックを実施し、この車種について顧客の意見を聴くと、同社の「エコノライン」の後継車としては小さすぎるなど評価は必ずしも芳しくなかったため、この案も実らなかった。

結果的に車種の選定で折り合いがつかなかったことが交渉決裂の決定的な要因となり、1981年7月に両社は交渉の終結を確認した。

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