第4節 石油危機への対応

第1項 第1次石油危機への対応

第2次大戦後の世界経済は、中東の大油田などから供給される低廉で豊富な石油を土台に成長を遂げてきた。しかし、1970年代に入ると、石油資源の新規発見量の伸び悩み、石油に代わる新エネルギー開発の遅れなどから、エネルギーに対する危機感が次第に高まった。世界的に「エネルギー危機」に対する不安が高まるなかで、産油諸国は石油価格の引き上げ、外国石油資本の国有化といった資源ナショナリズムの動きを強めていった。

1973(昭和48)年10月、第4次中東戦争が勃発し、アラブ諸国は対イスラエル戦略として原油の生産と輸出の削減を発表した。その後、産油諸国は、OPEC(石油輸出国機構)のもとに結集し、原油の供給を削減し原油価格を大幅に引き上げた。原油の公示価格をみると、アラビアンライト1で1973年1月には1バーレル2当たり2.59ドルであったものが、翌1974年1月には11.65ドルへと、4倍強の大幅値上げとなった。3石油危機である。

原油の供給削減と価格アップは、当時進行していた諸資材の不足にいっそう拍車をかけた。トイレットペーパー、洗剤などの生活用品も、「モノ不足」感から流通過程で混乱が生じた。政府は「石油需給適正化法」、「国民生活安定緊急措置法」の石油2法などにより消費抑制を行い、混乱の収拾に努めた。1974年から翌1975年にかけての日本経済は、厳しい不況下において異常なインフレに見舞われ、1974年度は戦後初めてマイナス成長となった。

1974年から1975年にかけて、日本を含めて、ほとんどの先進工業国で実質GNP(国民総生産)が下落するとともに、インフレに見舞われた。不況とインフレーション(物価上昇)の共存する状態(スタグフレーション)であった。

トヨタは自動車の生産に必要な資材・部品に入手困難なものが増え、その対策に忙殺された。また、原油価格の引き上げに伴って諸資材の価格も高騰し、その値上がりは原価改善、消費節約といった懸命な企業努力を上回るものとなり、1974年1月には、国内向け全車種での価格改定を余儀なくされた。

自動車の販売台数も消費マインドの冷え込みや、ガソリンの不足、価格の高騰などによって激減していった。1973年12月以降、前年の同月に比べ、自動車販売台数の数十%減が続いた。こうしたなか、トヨタは1974年1月から3月にかけて減産に踏み切り、販売店の在庫調整を3月でほぼ終了した。

そして、同年4月から一転して増産に入った。石油危機前後の状況について、豊田英二社長はのちに以下のとおり述べている。

年内(1973年)は何とか資材を寄せ集めてフル操業したが、49年(1974年)の正月早々から一転して減産に入った。48年(1973年)12月と年明け後の2回にわたって値上げしたこともあり、売れ行きはバッタリ止まった。そこで年明け早々から3月まで生産をドンドン落とした。売れ行き不振でディーラーの在庫が増えてきたからである。

トヨタが減産を始めたころ、他社では大増産の号令をかけていたところもあった。減産に関していえばトヨタが一番早かったのではないか。

在庫調整はほぼ3月で終わり、4月から一転して増産に入った。いち早く減産したこともあり、われわれが心配したほど事態が悪化しなかったからである。

増産の旗頭は、カローラである。国内販売は48年(1973年)がピークで49年(1974年)からは落ちてきたが、カローラだけはよく売れた。その一方で輸出にも力を入れた。だから輸出は49年(1974年)から50年(1975年)にかけてどんどん伸びた。

(豊田英二著『決断―私の履歴書』219~220ページ)

積極策に転じたトヨタは、全販売店とともに1974年の6月と7月に「T23作戦」を展開した。この2カ月間にトヨタ車を23万台販売することにより、この年1~5月の対前年同期比63.5%に対し、6~7月は対前年同期比約80%にまで回復させようというものであった。6~7月に23万3,500台余を販売し、目標23万台の販売を達成し、対前年同期比で80.6%にまで回復させた。とりわけ、7月には13万5,000台余を販売し、対前年同月比86.5%の水準まで戻した。さらに、同年9月には石油危機以来、初めて前年同月を上回る販売を記録し、悲観ムードに終止符を打った。

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