第2節 自動車試作

第2項 試作工場、製鋼所の建設

自動車製作部門を設置した豊田喜一郎は、試作工場と製鋼所の建設に取りかかった。当時は自動車製造に適した部品や材料の入手が困難であり、特に使用量が少ない自動車用鋼材を開発してくれる製鋼会社はなく、必要なものは自らつくらざるを得なかった。製鋼所の建設に際しては、本多光太郎博士の意見を徴するとともに、元大同電気製鋼所(現・大同特殊鋼)築地工場長の深田辯三を顧問として招いた。

豊田自動織機製作所は、1934(昭和9)年1月29日に臨時株主総会を開催し、自動車事業への進出資金に充てるため、資本金を100万円から300万円へと増資することを決議した。同時に、定款の第2条を変更し、「原動機及動力運搬機械ノ製作販売」および「製鋼製鉄其他精錬ノ業務」を事業目的に追加した。自動車部と製鋼部が正式に会社の業務として認められたのであり、将来的には飛行機製作も企図されていた。1

1934年3月には板金・組立工場、機械・仕上工場、倉庫、材料試験・研究室で構成される自動車部の試作工場が完成した。板金・組立工場と機械・仕上工場の面積はそれぞれ3,600m2(1,100坪)2で、倉庫は1,700m2(500坪)、材料試験・研究室は700m2(200坪)であった。前年に大島理三郎取締役が買い付けたドイツ製や米国製の工作機械が順次到着して据え付けられ、同年6月から7月にかけて試作工場が稼働を開始した。

続いて、1934年7月には製鋼部の製鋼所建屋が完成し、11月までに溶解用電気炉、圧延機が据え付けられて操業が始まった。また、鍛造部門も担当した製鋼部では、豊田自動織機製作所内のスチームハンマー鍛造機による既存鍛造設備を増強し、自動車用鍛造部品の試作を行った。

この間、1934年1月から7月にかけて自動車の量産工程を計画するため、菅隆俊が渡米した。菅は、130工場、7研究所、5大学などを訪問し、自動車工業ならびに工作機械工業の調査にあたった。

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