第2節 工販合併―トヨタ自動車の発足

第1項 合併決断へ

1979(昭和54)年の第2次石油危機を契機に、世界経済は低成長へと移行した。それまで拡大基調を続けた国内新車需要は、物価上昇に伴う可処分所得の目減りもあって徐々に冷え込んできた。販売競争が熾烈をきわめるなかで1980年のトヨタ車の国内登録台数は前年比7.2%減の149万台となり、シェアも37.3%へと2年連続で低下した。

海外の市場では、世界的な景気後退から通商摩擦が激化し、1981年度からは日本製乗用車の対米輸出自主規制や欧州共同体(EC)諸国向け輸出の自粛措置が実施された。通商摩擦問題の深刻化は、輸出中心であった米国など先進諸国での現地生産化が避けられない局面に入ったことを意味した。さらに、2度の石油危機を通じて、あらゆる産業分野で省エネルギー・省資源の機運が高まり、自動車業界でも技術開発競争が本格化していった。1970年代の海外市場の開拓もあって日本の基幹産業へと成長していった自動車業界は1980年代の初頭には難局に直面し、多くの課題を抱えることになったのである。

こうした時代の転換期に自動車メーカーは、より迅速な意思決定や経営資源の効率的活用などが求められたが、なかでも強い危機意識を共有していたトヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売の首脳陣は、積年の課題に対する決断を下した。その課題とは1950年に経営再建の条件として分離を余儀なくされた「工販」の合併であった。

分離以来、工販両社はそれぞれの領域において車の両輪となって業容を拡大してきた。ライバル社にはない2社体制が、トヨタの強みであるとも外部からは評価されたが、激化する通商摩擦問題や海外での現地生産化問題などを控え、スピーディな経営の舵取りを実現するには、名実ともに一体化した事業体への復帰が不可避となっていた。

1982年1月25日、両社は合併に合意して覚書に調印するが、それに至るまでの間、人心や組織の一体化をにらんだ周到な布石が打たれた。まず、1981年6月には自工の豊田章一郎副社長が自販の社長に就任し、同時に自工の取締役2人が自販の取締役に就いた。次いで、7月には管理職クラスについても自工の課長2人が自販に転籍した。

豊田章一郎は、自販の社長就任にあたり、次のように語った。

昨今の自動車業界は、第2次石油危機以降の需要の低迷、欧米諸国との貿易摩擦、そして、世界的な小型車競争の激化と、きわめて難しい局面を迎え、まさに生き残りをかけた熾烈な闘いを繰り広げております。こうした難局を乗り切っていくためには、当社のマーケティング機能をさらに高めるとともに、自工との連携を一層緊密なものとするなかで、両社がその持てる力を有機的かつ最大限に発揮することが必要不可欠だと思います。と同時に、当社にとって永遠の課題である「いかにすれば、ユーザーの期待に応えられるか」「何が販売店のためになるか」を徹底的に追求していかねばなりません。

そのうえで、次の3項目を経営課題に掲げた。

  1. 1.市場のニーズを的確に掌握し、それを魅力ある商品に反映させる。
  2. 2.自工、自販、販売店の一体の関係を強化するとともに、年間200万台販売体制を確立する。
  3. 3.長期的な視野に立った海外戦略を積極的に進めていく。

豊田社長は、就任とともに販売第一線の声を「現地現物」で確かめ、信頼関係を強固なものにするため、全国各地の販売店を精力的に訪問した。そして、この間も工販合併に向けて、水面下で着々と検討を重ねていった。

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